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博物館明治村 二重橋飾電燈

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 「二重橋」は皇居前広場から見て奥の橋、「江戸城西の丸下乗橋」の通称である。堀から石垣まで大変高いため、江戸時代、ここに橋を架けるに際して、橋脚を建てることが難しく、実際の橋の下に支えのための橋を設け二重とした。また、明治21年(1888)、皇居造営に伴い新しい鉄橋に架け替えられると、手前の橋と重なって二重に見えるようにもなった。この鉄製の飾電燈は、その新しい鉄橋の両たもとに計四基立てられたものの一つで、橋とともにドイツで作られた典型的なネオ・バロック様式のものである。明治村では橋の高欄の一部とともに展示している。

 明治初期のガス燈に引き続き、明治11年(1878)には日本で初めての電燈がともされた。これはアーク燈であったが、1879年(明治12年)エジソンが竹のフィラメントを使って白熱燈の実用化に成功すると、日本でもいち早く開発・研究に着手、数々の実験を経て、明治18年の東京銀行集会所新築に際し40個の白熱燈が点燈された。その2年後には東京電燈会社によって、日本橋区南茅場町の発電所から、江戸橋郵便局、銀行、その他に送電が始められた。明治21年の皇居造営に際しては、麹町に発電所を設けて送電、この飾電燈をはじめ皇居内に明かりをともした。この様に、当時は現代と異なり、その需要に応じて近くに発電所を設置し、送電していた。


博物館明治村 二重橋飾電燈
1888(明治21)年
登録有形文化財
設計・施工 : 不明
製作 : ドイツ「HARKORT」社
旧所在地 : 東京都千代田区千代田
犬山市内山1-11博物館明治村内
撮影 : 2011.9.22
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by gipsypapa | 2012-09-18 12:58 | 建築 | Trackback | Comments(2)

博物館明治村 東京盲学校車寄

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 福沢諭吉の「西洋事情」(慶応2年〔1866〕刊)には欧米における盲人及び聾唖者教育の実情も記されており、その中に点字による教育実践の様子が書かれている。

 日本で最初に盲人教育が行われたのは、明治6年(1873)頃であるが、まだ組織化されたものではなかった。

 明治13年、築地に私立の訓盲院が作られ、本格的な障害者教育が開始された。その後国立となり、一時は盲唖学校として障害者の一元的教育を目指した時期もあったが、明治41年(1908)盲唖分離を目的として小石川雑司ヶ谷町に東京盲学校が建設されることになり、同43年6月本館が完成した。

 本館は木造二階建、間口62mにも及ぶ大建築で、板張の壁面に柱、桁、胴差等の垂直材・水平材と筋違い等の斜材を浮き出して装飾とするハーフティンバーと呼ばれる様式が使われたが、これは明治末期の学校建築の典型的なスタイルであった。明治村は、この本館が昭和42年(1967)取り壊される際、デザインの凝縮されたその車寄だけを移築保存し、日本庭園の一角に据えて「あずまや」とした。


博物館明治村 東京盲学校車寄
1910(明治43)年
登録有形文化財
設計・施工 : 不明
旧所在地 : 東京都文京区千駄木町
犬山市内山1-10博物館明治村内
撮影 : 2011.9.22
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 この一帯には明治村日本庭園がありました。
by gipsypapa | 2012-09-17 20:54 | 建築 | Trackback | Comments(4)

博物館明治村 森鴎外・夏目漱石旧宅

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 明治中期のごくありふれた建坪39坪(129.5㎡)余りのこの建物には、数々の由緒が遺されている。

 明治20年(1887)頃、医学士中島襄吉の新居として建てられたものであるが、空家のままであったのを、明治23年森鴎外が借家、一年余りを過ごした。又、明治36年(1903)から同39年までは夏目漱石が借りて住んでいた。

 鴎外は、ここに移り住む同じ年の1月、処女作小説「舞姫」を発表、この家では「文づかひ」等の小説を執筆し、文壇に入っていった。その後数々の作品を残し、明治の文豪の一人に挙げられるが、本業は陸軍の軍医で、明治17年(1884)から4年間ヨーロッパに留学、教育を受ける間に、「日本家屋論」をドイツの学会で発表した。これは、日本の家について、欧米から「不衛生」等と指摘されることに反駁するための論文であったが、認めざるを得ない点として、次のように示している。“家が低く、立ち机には向かない。畳は不衛生な材料である。家の構造そのものが暖房に向いていない。”と。

 一方、約10年遅れてこの家に住んだ漱石は、ここで「吾輩は猫である」を発表、文壇にその名を高めた。文中に描写された家の様子は、猫のためのくぐり戸をはじめ、よくこの家の姿を写している。

 二人の文豪が相次いで住んだことは由緒のあることだが、この家が当時の典型的中流住宅であって、かつ現代住宅へ発展していく新しい芽がいくつか含まれている点も注目される。3畳の女中部屋の前に、ほんの短いものではあるが中廊下のはじまりが見られ、各部屋の独立へと一歩踏み出している。また、南の面に書斎を突き出して建てており、この形が後に洋間の応接室として独立していく。西郷從道邸、学習院長官舎等と比較する時、一般庶民の洋風化の限界がそこにある。


森鴎外・夏目漱石旧宅
1887(明治20)年ころ
登録有形文化財
設計・施工 : 不明
旧所在地 : 東京都文京区千駄木町
犬山市内山1-9博物館明治村内
撮影 : 2011.9.22
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 ここに住んだ時期、鴎外は雑誌「しがらみ草紙」を編集刊行、また、留学体験に想を得たドイツ三部作の三作目「文づかひ」を発表、漱石は「吾輩は猫である」の他、「坊ちゃん」「草枕」等の名作を世に送った。
by gipsypapa | 2012-09-16 20:49 | 建築 | Trackback | Comments(5)

博物館明治村 西郷從道邸

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 木造総二階建銅板葺のこの洋館は、明治10年代(1877~1886)のはじめ西郷隆盛の弟西郷從道が東京上目黒の自邸内に建てたものである。西郷從道は、明治初年から度々海外に視察に出掛け、国内では陸・海軍、農商務、内務等の大臣を歴任、維新政府の中枢に居た人物で、在日外交官との接触も多かった。そのため「西郷山」と呼ばれる程の広い敷地内に、和風の本館と少し隔てて本格的な洋館を接客の場として設けたのである。

 在日中のフランス人建築家レスカスの設計と考えられ、半円形に張り出されたベランダ、上下階の手摺等デザインもさることながら、耐震性を高めるための工夫がこらされている。屋根に重い瓦を使わず、軽い銅板を葺いたり、壁の下の方にレンガをおもり代わりに埋め込み、建物の浮き上がりを防いでいること等にその現れをみることができる。

 レスカスは明治5年(1872)には生野鉱山の建設に従事、同6年には皇居の地盤調査にも参加している。また、ドイツ公使館や三菱郵船会社の建物を設計し、明治20年頃まで建築事務所を開業していたが、その傍ら、日本建築の耐震性についての論文をまとめ、自国の学会誌に寄せている。

 二階各室には丈の高い窓が開けられている。フランス窓と呼ばれるもので、内開きのガラス戸に加えて外開きの鎧戸が備えられ、窓台が低いため、間に鉄製の手摺が付けられている。

  窓上のカーテンボックス、手摺、扉金具、天井に張られた押し出し模様の鉄板、そして流れるような曲線の廻り階段等、内部を飾る部品は殆ど舶来品と思われる。特にこの廻り階段は、姿が美しいだけでなく、昇り降りが大変楽な優れたものである。


博物館明治村 西郷從道邸
1877(明治10)年代
重要文化財
設計 : J.レスカス
施工 : 不明
旧所在地 : 東京都目黒区上目黒
犬山市内山1-8博物館明治村内
撮影 : 2011.9.22 & 2012.3.10
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 西郷 従道(さいごう じゅうどう / つぐみち、天保14年5月4日(1843年6月1日) - 明治35年(1902年)7月18日)は、日本の武士・薩摩藩士、陸軍軍人、海軍軍人、政治家、元老。階級・位階・勲等・功級・爵位は、元帥海軍大将・従一位・大勲位・功二級・侯爵。
 かの西郷隆盛の実弟です。隆盛が明治10年(1877年)の西南戦争で反乱を起こした際、従道は兄隆盛に加担せず、陸軍卿代行に就任し政府の留守を守った。以後は政府内で薩摩閥の重鎮として君臨した。
by gipsypapa | 2012-09-14 13:05 | 建築 | Trackback | Comments(4)

博物館明治村 学習院長官舎

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 文明開化の名のもとに、様々な場で洋風化が進められていくが、なかでも官公庁をはじめ、学校、軍隊、商工業などの仕事の場、公的な場では早くから洋式が採り入れられた。これに対し、私的な生活の場である住宅においては、洋風の波が及ぶものの完全には洋式とは成り得ず、和洋の混在する形式が生まれた。

 明治42年(1909)に建てられたこの学習院長官舎も洋館と和館とをつなぎ合わせた形式になっている。学習院長という公的な立場での接客や実務には洋館部分を使い、私的な生活には日本座敷を用いた。立式生活の場である洋館は軒端が高くいかめしい造りで、洋風の下見板張の壁面には水切を兼ねた胴蛇腹が廻らされ、その上下に丈の高い上ゲ下ゲ窓が整然と並んでいる。一方、座式生活の場である和館は、総二階建であるが、洋館に比べ屋根が低い。

 この学習院長官舎は、学習院が四谷から現在の目白に移された際、他の校舎とともにその構内に建設されたものであるが、当時の学習院長は陸軍大将乃木希典で、第十代目にあたる。

巾の広い階段室を間に、手前に洋館、奥に和館を接続させており、階段室の前には玄関ホールを設置している。この階段室を通って上下階とも洋館と和館の間を行き来できるようになっているが、さらに和館の奥に専用の階段が設けられている。玄関には鉄製の軽やかな屋根がかかり、その妻には桜の花弁を表した飾りが設けられている。


博物館明治村 学習院長官舎
1909(明治42)年
登録有形文化財
設計・施工 : 不明
旧所在地 : 東京都豊島区目白
犬山市内山1-7博物館明治村内
撮影 : 2012.3.10
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by gipsypapa | 2012-09-13 13:14 | 建築 | Trackback | Comments(2)

博物館明治村 聖ヨハネ教会堂

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 明治6年(1873)、鎖国以来二百数十年続いたキリスト教の禁止令が解かれ、各地に教会堂が建てられるようになった。

 この聖ヨハネ教会堂は、明治40年(1907)京都の河原町通りに建てられたプロテスタントの一派日本聖公会の京都五條教会で、二階が会堂に、一階は日曜学校や幼稚園に使われていた。中世ヨーロッパのロマネスク様式を基調に、細部にゴシックのデザインを交えた外観で、正面左右に高い尖塔が建てられ、奥に十字形大屋根がかかる会堂が配された教会である。正面の妻と交差廊の両妻には大きな尖塔アーチの窓が開けられ、室内が大変明るい。構造は、一階がレンガ造、二階が木造で造られ、屋根には軽い金属板が葺かれておりこれは日本に多い地震への配慮とも考えられる。また構造自体がそのまま優れたデザインとして外観・内観にあらわれている。

 開国後多くの宣教師が来日するが、その中には宣教だけでなく実業面、教育面でも業績を遺した人もいた。この教会堂を設計したアメリカ人ガーディナーもその一人である。ハーバード大学で建築を学んだガーディナーは明治13年(1880)来日、立教学校の校長として教育宣教にあたる一方、建築家としても立教大学校校舎、明治学院ヘボン館、日光真光教会等の作品を遺している。

十字形平面の会堂内部は、化粧の小屋裏をあらわし、柱などの骨組が細目に見えることもあって、実際より広く感じさせる。京都の気候に合わせて使ったと言われる天井の竹の簀も、明るい窓の光を反射させ、より開放感を増している。

 建物細部の随所にゴシック風の尖頭アーチが見られるが、特に正面入口がよい例で、レンガ積の角柱から柱頭飾りをはさんでレンガ積のきれいなアーチが立ち上っている。奥の欄間の二つの三葉形アーチの窓や板扉の大形の金具のデザインも中世風のものである。


博物館明治村 聖ヨハネ教会堂
旧日本聖公会京都聖約翰教会堂
1907(明治40)年
重要文化財
設計 : J.M.ガーディナー
施工 : 鈴木由三郎、山本住造
旧所在地 : 京都市下京区河原町通五條
犬山市内山1-6博物館明治村内
撮影 : 2011.9.22
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by gipsypapa | 2012-09-12 13:11 | 建築 | Trackback | Comments(3)

博物館明治村 赤坂離宮正門哨舎

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 銅板葺の丸屋根をいただき、外壁を白ペンキで塗ったこの可愛らしい建物は、赤坂離宮正門両脇の内外に、離宮の創建当初からその警護のため設けられていた四基の哨舎のうちの一つである。現在迎賓館となっている赤坂離宮は、明治42年(1909)東宮御所として竣工した代表的な明治の洋風宮殿で、本館前面には広大な西洋式庭園をはさんで見事な洋風の正門が設けられ、この正門哨舎もこれらに調和するよう設計されている。

 元紀州徳川家の中屋敷は、明治5年(1872)赤坂離宮とされ、翌6年の皇居炎上から同21年(1888)の新皇居落成までは仮皇居となっていた。その後は東宮御所として使われることになり、明治20年代の末、新御殿造営の計画が開始された。設計にあたった片山東熊は、明治10年(1877)に開講された工部大学校造家学科でイギリス人建築家コンドルの教えを受けた第一回卒業生四人のうちの一人で、卒業後は工部省を経て宮内省内匠寮に移り、帝国奈良博物館、帝国京都博物館等を手がけ、宮廷建築家となった。片山は赤坂離宮の設計にあたって、調査のため度々欧米諸国を訪ねているが、なかでもフランスのベルサイユ宮殿やルーブル宮殿の意匠に強い興味を示し、設計の範としている。


博物館明治村 赤坂離宮正門哨舎
1908(明治41)年
登録有形文化財
設計 : 片山東熊
施工 : 不明
旧所在地 : 東京都港区元赤坂
犬山市内山1-5博物館明治村内
撮影 : 2011.9.22
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by gipsypapa | 2012-09-11 09:56 | 建築 | Trackback | Comments(2)

博物館明治村 近衛局本部付属舎

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 慶応3年(1867)の大政奉還ののち、徳川幕府の居城であった江戸城は天皇の城となり、明治2年(1869)1日西丸殿舎を宮殿としたが、同6年に炎上、このため新宮殿建設の計画が立てられた。西南戦争等で遅れ、皇居内の建物が一応の整備をみたのは明治21年(1888)のことである。 この建物は宮城警護のために設置された皇宮警察の庁舎の一部で、明治20年(1887)坂下門内に着工されたが、建設中に用途を近衛局(1889年、近衛師団と改称)本部に変更して翌年に完成した。その後、師団本部は移転したため、皇宮警察本部がここへ移り、昭和42年(1967)まで坂下護衛所として使用した。
 木造平家建瓦葺で内外壁を白漆喰で塗りあげたこの別館は、正面に軽快なアーケードを配した開放的な建物になっており、アーチを縁どる細い水切も軽やかな印象を与えている。古図によれば、創建当初は八つのアーチの柱間に高さ90cm程の鋳鉄製の手摺があり、なお華やかなものであった。しかし、解体時には失われており、このため復原されていないが、基壇等一の所々に開けられた床下換気口の格子金具に当時のデザインの一端をしのぶことができる。尚、明治村への移築・復原に際して、室内の間仕切壁を取り払った。

博物館明治村 近衛局本部付属舎(皇宮警察坂下護衛署別館)c0112559_15374935.jpg
1888(明治21)年
登録有形文化財
設計・施工 : 不明
旧所在地 : 東京都千代田区千代田
犬山市内山1-4博物館明治村内
撮影 : 2011.9.22
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by gipsypapa | 2012-09-09 15:40 | 建築 | Trackback | Comments(2)

博物館明治村 三重県尋常師範学校本館・蔵持小学校校舎

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 明治19年(1886)の師範学校令により、東京に高等師範学校が、又各県に一校ずつ尋常師範学校が設けられることになった。尋常師範学校は小学校教師の養成を目的としており、国民皆学の基礎となったものである。明治21年に三重県の尋常師範学校本館として建てられたこの建物は、昭和3年(1928)、本館の改築に伴い県下名張市の蔵持村に売却・移築され、蔵持小学校として使われていた。明治村で保存公開されている三重県庁舎と同じ清水義八の設計になり、三重県庁舎と同様、E字形左右対称二階建であったが、昭和48年(1973)明治村に移築保存するに際しては、特色ある中央玄関部分と右翼の二教室分のみを遺した。

 県庁舎が清水義八による洋風建築初期の作品で、単純で古典的な印象を与えるのに対し、約10年のちのこの建物ではデザインが消化されて、中央の玄関部を除けば穏やかにまとめられている。玄関は四本の円柱を立ててアーケードとし、二階にベランダを設け、入母屋の屋根をいただく。アーチや入母屋の破風に草花をモチーフとした縁飾りをあしらい、懸魚にも洋風の雰囲気を遺している。二階ベランダの手摺、軒廻り、入母屋妻のデザインなどにも設計者の工夫が見られる。翼屋の教室部分の外壁は洋風の下見板張りになっており、白漆喰塗の玄関部とあざやかなコントラストをなしている。

 車寄の柱は三重県庁舎と同じ古代ローマのトスカナ様に作られているが、柱の上ではなく柱の中途に持ち送りを出してアーチを支えている。このように柱間にアーチを組み込むのは中世以降の構成である。一方、通り抜けの入口は両側に太い石の柱を建て、その上に厚い石のアーチを架け渡している。


博物館明治村 三重県尋常師範学校本館・蔵持小学校校舎
1888(明治21)年
登録有形文化財
設計 : 清水義八(棟梁)
施工 : 不明
旧所在地 : 三重県名張市蔵持
犬山市内山1-3博物館明治村内
撮影 : 2011.9.22
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by gipsypapa | 2012-09-07 13:21 | 建築 | Trackback | Comments(2)

博物館明治村 大井牛肉店

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 横浜、長崎につぎ、慶応3年(1867)神戸が開港した。外国船が寄港し、外国人居留地には外国人の住宅が次々と建てられた。これに伴い、外国人相手の商売が興り、船や在住外国人に牛肉を納める者達も出てきた。その一人岸田伊之助が明治20年(1887)頃牛肉販売と牛鍋の店として建てたのが、大井牛肉店である。外国の商館が立ち並ぶ新しい町、その街中の商店にふさわしく、洋風の建物で、正面を華やかに飾った。

 一階の入口と二階のベランダをアクセントとして、間口の狭い壁面に変化をもたせるとともに、西洋古典様式の柱と半円アーチの窓を配して全体を大きくみせている。洋風のデザインであるが、日本古来の技法が用いられ、木造に白漆喰を塗って柱や窓廻りを形作っている。屋根構造も和小屋で、桟瓦を葺いている。 玄関を入ると、店の土間が建物の前半分を占め、裏に抜ける通り土間が左奥に、右奥には座敷の配置となっている。牛鍋を供する場所は二階の大小四つの部屋でありいずれも板敷きの洋間になっている。

 大井牛肉店正面を飾る柱のデザインは、ギリシャ・ローマ建築の様式の一種で、コリント式と呼ばれ、華やかなものとして知られている。手摺を支える“とっくり型”の手摺子はルネサンス以降に発達したものである。

 洋風が目立つ正面の意匠の中で、ひときわ異彩をはなつ玄関の庇。京風のむくり破風に鶴を飾り、金の浮き文字看板を掲げている。


博物館明治村 大井牛肉店
1887(明治20)年ころ
登録有形文化財
設計・施工 : 不明
旧所在地 : 神戸市生田区元町
犬山市内山1-2博物館明治村内
撮影 : 2011.9.22
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  牛鍋(すき焼)。日本では獣の肉は嫌われていたが、開国に伴い外人が牛肉を食する習慣を知ると、「牛肉食わねば開化不進奴」と粋がる風潮が、東京を皮切りに次第に全国に広がっていった。明治村の大井牛肉店は、牛鍋屋としての営業も行っている。
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by gipsypapa | 2012-09-06 09:59 | 建築 | Trackback | Comments(2)