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博物館明治村 北里研究所本館・医学館

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 八角尖塔を頂く木造二階建のこの建物は、日本の細菌学の先駆者北里柴三郎が大正4年(1915)芝白金三光町に建てた研究所の本館である。

 古代ギリシャのヒポクラテスを祖としてはじまった西洋医学は臨床学的、解剖学的な発展を遂げるが、微生物の存在については17世紀半ばに至るまで学者の想像の域を出ていなかった。1683年になってオランダ人レーベン・フックが単式顕微鏡を使って、はじめて「小動物」(微生物)を確認、その後、顕微鏡の発達が微生物研究の進展を促し、19世紀後半パスツール、コッホらにより病気と微生物との因果関係が明らかにされるに及んで、基礎医学の一重要分野である医学的細菌学の確立をみた。

 東大で医学を修めた北里柴三郎はドイツに留学、コッホのもとで、細菌学を研究し、破傷風菌の培養、破傷風の血清療法によって学界に認められた。帰国した翌年、明治25年(1892)福沢諭吉の後援を得て日本初の伝染病研究所を設立、大正3年(1914)同研究所が東大に移管されると野に下り、独自にこの北里研究所を創立した。
 
 北里自身が学んだドイツの研究所に倣い、ドイツバロック風を基調に新時代の様式を加味した建物である。屋根は腰折屋根で天然スレートを葺き、小屋裏に明かりを入れる屋根窓を配している。
 
 木造総二階建のこの建物は本来左翼の長いL字形であったが、移築に際し左翼屋を除いて復原している。上下階とも廊下が建物の南面(前面)に通されているのは顕微鏡観察のための措置で、光を変化の少ない北面から採り入れる方が良いとの考えによるものである。腰折屋根を作る小屋組は洋小屋クイーンポストトラスの変形である。

車寄上部には北里柴三郎が発見した「破傷風菌」と平和のシンボル月桂樹をあしらった紋章が取り付けられている。これは現在も北里学園の校章とされている。


博物館明治村 北里研究所本館・医学館
1915(大正4)年
登録有形文化財
設計・施工 : 不明
旧所在地 : 東京都港区白金
犬山市内山3-25博物館明治村内
撮影 : 2011.9.22
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by gipsypapa | 2012-10-02 22:03 | 建築 | Trackback | Comments(2)

博物館明治村 京都七條巡査派出所

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 江戸幕府の崩壊で無政府状態にあった東京では、明治元年(1868)薩摩、長州等の藩兵が組織され、その警護、治安に当たることになった。これが警察のはじめである。その後兵部省の管轄下で各藩から兵士を選抜して府兵を組織、各地方でも同様に府兵、県兵の組織が作られたが、廃藩置県後は管轄を司法省に移し、軍と警察の分離をはかるとともに警察組織の全国統一を目指した。さらに明治6年(1873)内務省が設置されると、所管は同省に移され、その下で整備が進められた。以後度々の改変を経て、明治19年(1886)には警察庁、各府県警察本部の名が定められた。この中央集権的警察制度は昭和22年(1947)の自治体警察制度発足まで続くことになる。

 警察官の呼び名も、府兵から羅卒、巡査へと変わっていくが、全国で巡査と呼ばれるようになったのは明治8年(1875)以降のことである。

 この京都七條巡査派出所は京都駅の近く、下京区七条の通りに面し、西本願寺・龍谷大学の入口角に建てられた。木造の建物であるが、当時流行していたレンガ造洋風建築に似せて化粧レンガを張りあげ、左官仕上げの帯を入れている。低く勾配の緩い屋根やかまぼこ形の玄関庇は銅板葺である。


博物館明治村 京都七條巡査派出所
1912(明治45)年
登録有形文化財
設計・施工 : 不明
旧所在地 : 京都市下京区七條
犬山市内山2-23博物館明治村内
撮影 : 2011.9.22 & 2012.3.10
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by gipsypapa | 2012-10-01 16:31 | 建築 | Trackback | Comments(2)

博物館明治村 札幌電話交換局

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 1844年アメリカ人モールスが電信機を発明、ついで1876年(明治9年)には同じくアメリカ人のベルが有線電話の実用化に成功した。このように通信手段が飛躍的な進歩をとげている時期に日本は開国する。

 維新後直ちに電信による全国通信網整備の計画が実施されたが、ベルが電話を発明すると、早くも翌明治10年(1877)日本にも紹介され、同23年には東京と横浜で電話交換業務を開始、以後徐々に全国に普及していった。この札幌電話交換局は明治31年(1898)暮に竣工、翌年から交換業務を開始している。

 外廻りの壁を厚い石で築き、内部の床、間仕切り壁、小屋組を木造で組み上げ、屋根には桟瓦を葺いている。一階の窓は葉飾(かざり)を刻んだ要石(かなめいし)を持つアーチ窓、二階は(まぐさ)式の窓で小庇がつけられている。二階窓下の胴蛇腹には大きな円形の花紋が連続して刻まれ、全体の雰囲気を和らげる効果をあげている。壁面を胴蛇腹で分け、上下階の窓のデザインをかえる手法は、西欧でよく用いられたもので、ここでも単調になりがちな外観を印象深いものにしている。

 この建物は、明治43年(1910)に同形式による大増築がなされており、このため明治43年の創建と思われてきたが、解体の際に増築側の間仕切り壁に当初の石造外壁が塗り込められていることが発見され、明治31年竣工の記念的建造物であることが判明した。


博物館明治村 札幌電話交換局
1898(明治31)年
重要文化財
設計 : 逓信省監査局建築課
施工 : 不明
旧所在地 : 札幌市大通
犬山市内山2-21博物館明治村内
撮影 : 2011.9.22
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 日本で初めて実用に供された電話機はガワーベル電話機であった。明治29年にはデルビル磁石式壁掛電話機が実用化され、以後大正、昭和と広く使われた。磁石式電話機は、発電機を内蔵するもので、ハンドルを回して自ら通信回路を構成する。一方交換機は殆どが手動であったが、明治末期には自動交換機も使用されるに至った。
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by gipsypapa | 2012-09-30 16:56 | 建築 | Trackback | Comments(0)

博物館明治村 安田銀行会津支店

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 明治5年(1872)国立銀行条例が発布され、翌年東京の兜町海運橋際に第一国立銀行が開業した。一方、明治9年日本橋駿河町にあった為替バンク三井組が三井銀行に改組され、私立銀行も創立をみた。この二つは銀行業の創始を物語るものであるとともに、明治初期の代表的擬洋風建築として親しまれてきたが、明治30年代に入って、相次いでその姿を消した。

 明治12年(1879)国立銀行の設立認可が153行で打ち切られると、それ以降私立銀行の設立が急速な勢いで増えてくる。安田銀行も明治12年認可を受け、翌13年に開業している。最初は栃木、宇都宮の二店であったが、その後東北地方に展開し、明治23年には会津若松に若松支店が設けられた。当初は既存の土蔵造(どぞうづくり)の建物を借りて営業していたが、明治40年(1907)この建物が新店舗として落成した。

 伝統的な土蔵造をもとにしているが、要所には洋風のデザインを施しており、玄関の石柱、正面と右側の面の石積の腰壁、窓の太い鉄格子、軒蛇腹等、いずれも新しい洋風の手法によるものである。

 土蔵造は太い柱を厚い土壁で塗り込んでしまう日本古来の工法で、火災に強いという特長を持つ。防災上大変有効なこの工法に、洋風のデザインがうまくかみ合い優れた明治建築を生み出した良い例である。又、側面のなまこ壁もこの建築に美しさを添えている。

 室内は外の意匠以上に洋風の手法が取り入れられている。まず目につくのは高く吹き抜かれた営業室で、二階の窓から入る光が白い壁に反射して、室内が大変明るくなっている。二階ギャラリーを支える四本の柱は溝彫(みぞぼり)され、その脚部には西洋風の繰形が施されている。カウンターの腰板にも新時代の手法が用いられている。


博物館明治村 安田銀行会津支店
1907(明治40)年
登録有形文化財
設計・施工 : 不明
旧所在地 : 福島県会津若松市大町
犬山市内山2-20博物館明治村内
撮影 : 2011.9.22
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「分銅に三」をデザインした玄関天井飾り。
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 安田銀行会津支店の玄関の天井中心飾りや軒先の瓦には安田銀行創業以来の行章「分銅に三」が用いられている。
 「分銅の三」の「三」は安田銀行創業者安田善次郎の祖先が平安時代の高名な学者「三善清行」にあたることから採ったもので、江戸時代からの両替商の印「分銅」に三善の「三」を組み合わせたものである。

by gipsypapa | 2012-09-29 09:18 | 建築 | Trackback | Comments(4)

博物館明治村 京都中井酒造

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 中井家は、江戸時代の天明7年(1787)京都河原町二条で商売を始めた。その後享和3年(1803)やや西の御幸通りで酒屋を開業したが、元治元年(1864)長州藩と会津・薩摩両藩京都御所蛤御門(はまぐりごもん)付近で衝突した事件(禁門の変)で焼失、その後、この建物が再建された。

 京都御所の南方を南北に走っている御幸町通りは豊臣秀吉が京都の町を改造した時に新たに引かれた通りである。

 軒が低く、屋根に緩いカーブを持たせているのは「むくり屋根」といって京都地方伝統の姿である。軒下漆喰塗りの壁には虫篭窓(むしこまど)が明けられ、屋根裏部屋の明り取りとなっている。一階正面の目の粗い格子は酒屋格子といって無双窓(むそうまど)の形式になっており、内側に薄い格子板が添わされていて左右にずらすだけで遮蔽ができるようになている。

 狭い間口に比べ奥に長い建築は「町屋」と呼ばれ、入口から奥へ通り土間が通っている。この中井酒造では、通り土間の左側が座敷で住まいの部分、右側が吹抜きの作業場になっている。この建物の中では酒造り全工程のうち、新米の貯蔵、洗米、米蒸し、地下室での麹作りまでが行われ、仕込・貯蔵などは別棟で行われた。

 蒸し竃の近くには酒造り職人である蔵人(くらびと)が休憩する「会所部屋」があり、座敷の上の屋根裏部屋には蔵人の寝部屋がある。

 中井酒造の竃は、解体時のまま、レンガ造りとした。江戸時代までは土造り、石造りであったが、レンガ造りになり、燃料も薪から炭、石炭へと変わるなど明治時代に大きく改良を遂げたものである。


博物館明治村 京都中井酒造
1870(明治3)年
登録有形文化財
設計・施工 : 不明
旧所在地 : 京都市中京区御幸通二条
犬山市内山2-19博物館明治村内
撮影 : 2011.9.22
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by gipsypapa | 2012-09-27 11:15 | 建築 | Trackback | Comments(4)

博物館明治村 東松家住宅

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 東松家住宅は名古屋の中心部堀川沿いにあった商家である。東松家は明治20年代後半までは油屋を生業とし、その後昭和の初めまで堀川貯蓄銀行を営んでいた。

 塗屋造という江戸時代以来の伝統工法で建てられているこの建物は、創建以来、再三の増改築を経ている。江戸末期、平屋であったものを、明治28年後方へ曳家(ひきや)の上、2階の前半部を増築して現在の店構えを完成させ、明治34年3階以上を増築したらしい。

 江戸時代にはいかに富裕でも武家以外のものが三階建ての建物を造ることは許されず、慶応3年(1867)に なってはじめて京都、東京でこの禁令が解かれ、以後順次全国で認められるようになった。しかし、大正8年に市街地建築物法により木造高層住宅が禁止されたので、3階建以上の木造住宅はわずか50年ほどの間しか造られなかった。名古屋城から伊勢湾へと流れる運河堀川に面したこの商家は、間口が狭く奥行の深い典型的な町屋である。2階には露地にみたてた廊下、待合、原叟床風の床框や墨蹟窓などを備えた茶室が設けられている。又、正面の壁が三階まで直立していのは日本の建築になかったもので、ビル化する商店建築の先駆けと言えるものである。

 1階左側に裏まで抜ける通り土間を通し、右側にミセ、座敷などを連ねている。通り土間の上を3階までの吹き抜けにし、高窓から明かりを入れているので、奥行きが深いにもかかわらず室内は予想外に明るい。2階3階は住まいのための部分であるが、吹き抜けに面して茶室が設けられている。茶室には露地にみたてた廊下、待合、原叟床風の床框や墨蹟窓などが備えられ、当時の商家の趣味の一端がしのばれる。


博物館明治村 東松家住宅
1901(明治34)年ころ
重要文化財
設計 : 児玉利助
施工 : 不明
旧所在地 : 名古屋市中村区船入町
犬山市内山2-18博物館明治村内
撮影 : 2011.9.22
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by gipsypapa | 2012-09-26 13:26 | 建築 | Trackback | Comments(2)

博物館明治村 清水医院

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 江戸時代の五街道の一つ中山道は、近江草津で東海道と分かれ、大垣、岐阜を経て鵜沼から木曽川に沿って信濃へ抜け、さらに江戸へと通じていた。木曽路の中程、妻篭と木曽福島の中間、須原の地にこの清水医院は建てられた。建造の詳しい年月は明らかではないが、その様式から凡そ明治30年代(1897~1906)と推定される。名古屋から須原まで鉄道が開通したのが明治42年(1909)であるので、当時はまだまだ交通の不便な時代であった。因みに中央線が全通したのはその翌々年、明治44年(1911)のことである。

 須原に生まれた清水半次郎は、東京に出て医学を学んだ後、地元の木曽谷に戻り医院を開業したが、この医院は旅篭の立ち並ぶ街道沿いでひときわ目立つものであった。木曽檜の柿葺(こけらぶき)屋根をのせた土蔵造りであるが、表側の入口や窓をアーチ形に開けたり、白い壁に目地を切って石積みに見せたり、壁隅には柱型を付ける等、洋風のデザインが模されている。しかし、アーチ形にした窓も、建具を「上ゲ下ゲ」や「開き」にせず、室内側での引き込みにしているところなどは面白い。

 この清水医院には島崎藤村の姉園子も入院しており、彼女をモデルにした藤村の小説「ある女の生涯」では、須原の蜂谷医院とされて当時の様子が記されている。
 玄関を入ると通り土間に面して待合室と薬局があり、薬局には小さな投薬口が設けられている。畳敷きの待合室に続いて板張りの診療室となるが、待合室の廻りの襖(ふすま)には様々な養生訓が黒々と大書されている。二階は数奇屋風の造りの住居部分になっている。


博物館明治村 清水医院
1897(明治30)年代
登録有形文化財
設計・施工 : 不明
旧所在地 : 長野県木曽郡大桑村
犬山市内山2-17博物館明治村内
撮影 : 2011.9.22
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 ● 島崎藤村「ある女の生涯」より
略) 蜂谷の医院は中央線の須原駅に近いところにあった。おげんの住慣れた町とは四里ほどの距離にあった。彼女が家を出る時の昂奮はその道のりを汽車で乗って来るまで続いていたし、この医院に着いてもまだ続いていた。しかし日頃信頼する医者の許に一夜を送って、桑畑(くわばたけ)に続いた病室の庭の見える雨戸の間から、朝靄(あさもや)の中に鶏の声を聞きつけた時は、彼女もホッとした。小山の家のある町に比べたら、いくらかでも彼女自身の生まれた村の方に近い静かな田舎に身を置き得たという心地もした。(略)
by gipsypapa | 2012-09-25 13:07 | 建築 | Trackback | Comments(4)

博物館明治村 東山梨郡役所

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 廃藩置県によって始められた地方行政をより効率的に行うため、明治11年(1878)「郡区町村編制法」が施行される。これにより、県令の任命する郡長が、県令の指示のもとで郡内の町村の行政を指導監督することになった。山梨県は施行当初4郡に分けられたが、明治13年(1880)の太政官布告により9郡に改編された。東山梨郡が誕生したのはこの時で、日下部(くさかべ)村をはじめ30の村が編入された。

  発足当初、仮庁舎を使って業務が開始されたが、明治18年(1885)新庁舎としてこの建物が日下部村に落成した。当時の山梨県令藤村紫朗は大変開明的な人物で、地元に多くの洋風建築を建てさせている。人々はそれらを「藤村式」と呼んだが、この東山梨郡役所もその一例である。正面側にベランダを廻らせ、中央棟と左右翼屋で構成する形式は、先の三重県庁舎と同様、内務省に代表される当時の官庁建築の特徴である。

  この建物は地元の職人の手になるものであるが、木造桟瓦葺の外形に伝統技法を駆使して様々な洋風の意匠を施している。ベランダの柱は凸面のひだをとった胡麻殻决り(ごまがらじゃくり)の丸柱として、洋風の束ね柱(たばねばしら)を模し、壁面の出隅には黒漆喰を用いて隅石積の形を塗り出している。二階手摺の構成等には、純粋の洋風建築にはない面白さがある。室内では花鳥風月をあしらった天井の漆喰塗中心飾が特に美しい。

 この東山梨郡役所は中央部分が二階建、左右翼屋が平家建になっており、このため屋根が複雑に架けられている。屋根を支える小屋組は、中央の大屋根部分が大スパンに適した洋小屋のキングポストトラス、翼屋の部分が和小屋になっている。


博物館明治村 東山梨郡役所
1885(明治18)年
重要文化財
設計 : 不明
施工 : 赤羽芳造、土屋庄蔵
旧所在地 : 山梨県山梨市日下部町
犬山市内山2-16博物館明治村内
撮影 : 2011.9.22
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by gipsypapa | 2012-09-24 13:29 | 建築 | Trackback | Comments(2)

博物館明治村 第四高等学校物理化学教室

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 明治19年(1886)に「中学校令」が公布され、東京大学予備門が第一高等中学校に、大阪の大学分校が第三高等中学校に改組された。引き続き、翌年には仙台に第二、金沢に第四、熊本に第五高等中学校が設置され、明治27年(1894)の「高等学校令」により、いずれも高等学校に改称・改組された。

 この物理化学教室は高等中学校時代の明治23年(1890)に創建され、以後、第四高等学校、金沢大学へと引き継がれてきた建物である。

 近代化を推し進めようとする明治政府にとって自然科学教育は重要な課題で、明治5年(1872)公布された学制の「小学規則」の中にも窮理学(物理)、科学、博物、生理、の四科目があげられており、初等教育の段階から重きを置かれていた。中等・高等教育においても、実験まで含めた自然科学教育が実施され、ここに見るような物理化学教室が建設された。
 もとはH型の大規模な建物であったが、明治村では中央部分だけを移築・保存している。木造桟瓦葺平家建であるが、階段教室の部分だけ一廻り大きくなっている。外壁は南京下見(なんきんしたみ)と呼ばれる洋風の張り方で、竪長の窓には下に上ゲ下ゲ窓、欄間(らんま)に回転窓が入れられている。又、軒裏には小さな換気口が数多くあけられ、実験室のドラフト・チャンバーとともに室内換気に効果をあげている。

 棟札によれば、この建物の工事監督は文部省技師山口半六、設計者は同じく文部省技師の久留正道である。この二人はともに明治期の学校建築の功労者であるが、特に久留正道、西洋建築の理論や技術の研究を行い、「学校建築設計大要」等を著している。この階段教室も、そういった理論の裏付けのもとに、段の勾配、天井の高さ、窓の位置・大きさ等が設計されている。


第四高等学校物理化学教室
1800(明治23)年
登録有形文化財
設計 : 久留正道
施工 : 山口半六(工事監督)
旧所在地 : 石川県金沢市仙石町
犬山市内山2-15博物館明治村内
撮影 : 2011.9.22
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 谷口吉郎・土川元夫レリーフ (製作:菊池一雄)
 明治村は、四高時代同級生であった東京工業大学教授で建築家の谷口吉郎と名古屋鉄道株式会社会長の土川元夫の発想と決意によって誕生した。 
 土川元夫 1903-1974
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 谷口吉郎 1904―1979
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by gipsypapa | 2012-09-23 10:42 | 建築 | Trackback | Comments(2)

博物館明治村 千早赤阪小学校講堂

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 一階が雨天体操場、二階が講堂となっているこの建物は、もとは大阪市北区大工町の堀川尋常小学校にあったが、昭和4年(1929)同校の校舎が新築されるに際し、南河内郡千早赤阪村の小学校に移築されたものである。

 木造二階建桟瓦葺寄棟造で、建物の四周に幅1間(約1.8m)の吹放ち(ふきはなち)の廻廊をめぐらせている。二階の外壁は洋風下見坂で、出隅には柱型を付け、軒には蛇腹をまわしている。壁面に整然と並べたれた堅長の窓には欄間と上ゲ下ゲガラス戸が入れられているが、その廻りには額縁をまわすとともに、上にはペディメントを飾り、窓台下にはブラケットを付けた古典的な姿になっている。一方、下屋に隠れた一階の壁は漆喰塗真壁で柱を表面に見せ、腰には竪羽目板を張っている。四方に開けられた出入口は全て引き違いの大きなガラス戸になっていて、欄間にも引き違いガラス戸を入れている。

 明治中頃から学校教育の中で体操が重視されはじめ、明治後期には体育教育が盛んに行われるようになる。体操の内容も亜鈴式からスウェーデン式へと変わり、広い体操場が求められるようになった。

 なお、明治村への移築に際し、建物の高さが木造建築の法定限度を超えるため、建物四隅の壁体の中に鉄骨を埋め込んで、補強した。

 一階の廻廊には、二間(3.6m)ごとに細い角柱が立てられ、柱間に浅いアーチ形の幕板を入れ、その中央にペンダント状の吊束を付けている。因みに、アーチが連続した廻廊をアーケードという。


博物館明治村 千早赤阪小学校講堂
1897(明治30)年ころ
登録有形文化財
設計・施工 : 不明
旧所在地 : 大阪府南河内郡千早赤阪府
犬山市内山2-14博物館明治村内
撮影 : 2011.9.22
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by gipsypapa | 2012-09-21 12:56 | 建築 | Trackback | Comments(2)