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博物館明治村 第四高等学校武術道場「無声堂」

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 古来、武士のたしなみとして剣術、柔術、水術等様々な武道が伝えられてきたが、明治初年の新しい学校体育では体操が中心で、武道はとりあげられなかった。明治15年(1882)嘉納治五郎が柔道を創始して古武道の改革をはかるが、これが下地となって、日清戦争後、15歳以上の強壮者に対し武道を正課外で習わせることが認められ、主として大学、高等学校の運動部の活動として普及をみるようになった。明治後期になると、国内全般に尚武的気風が高まり、それまで欧米式体育に対する反省もあって、学校体育に武道が加えられるようになった。

 この「無声堂」は大正6年(1917)金沢の第四高等学校に建てられたもので、柔道、剣道、弓道三つの道場を兼ね備えた大きな洋風建築物である。木造下見板張桟瓦葺の余り派手さのない建物であるが、道場の床には工夫がみられ、柔道場では床の弾力を増すため床下にスプリングを入れ、剣道場では音の反響を良くするため床下に共鳴用の溝を掘っている。長い年月にわたり、幾多の若人がこの「無声堂」で修練を積んできた。

 茅葺の厚く深い軒の下には丸い的が置かれている。弓道場の正面は、雨戸を入れる戸袋まで左右に開くことができるため、さえぎるものは柱一本ない。小屋組の構造を合理的な洋小屋組にすれば、このように途中の柱を抜いて長大な間を架構することも比較的容易である。


博物館明治村 第四高等学校武術道場「無声堂」
1917(大正6)年
登録有形文化財
設計・施工 : 不明
旧所在地 : 石川県金沢市仙石町
犬山市内山4-34博物館明治村内
撮影 : 2011.9.22
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by gipsypapa | 2012-10-18 12:53 | 建築 | Trackback | Comments(2)

博物館明治村 芝川又右衛門邸

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 芝川又右衛門邸は現在の西宮市甲東園に明治44年(1911)、大阪の商人芝川又右衛門の別荘として建てられた。設計者は当時京都工等工芸学校図案科主任で、後に京都帝国大学建築学科の創設者となる武田五一である。

  芝川又右衛門は先代が大阪伏見町に唐物商(輸入業)「百足【むかで】屋」を開業し、三井八郎右衛門・住友吉左衛門などとともに明治13年(1881)の日本持丸長者鑑【かがみ】に、名を連ねた豪商の一人である。

又右衛門は明治29年(1896)に果樹園「甲東園」を拓き、明治44年(1911)には別荘としてこの建物を建築し、さらに日本庭園や茶室等を整え、関西財界人との交友の場とした。 現在、甲東園近くを通る阪急今津線(当時は阪神急行電鉄西宝線)は大正10年(1921)に開通していたが、当時甲東園には駅(停車場)がなかったため、芝川又右衛門は駅の設置を阪急に依頼し、設置費用と周辺の土地一万坪を阪急に提供した。この土地一万坪が甲東園一帯の土地開発の端緒となったといえる。

武田五一は明治34年(1901)から約2年半欧州へ留学し、帰国直後、貿易商・福島行信の依頼を受け、日本で初めて当時欧米で流行していたアール・ヌーボー様式を取り入れた住宅を設計した。その後、議院建築視察のため再度欧米視察をし、帰国後、芝川又右衛門より「洋館」の依頼を受け、ヨーロッパのグラスゴー派やウィーンのゼツェッションと数寄屋など日本建築の伝統とを融合したこの洋館を建てた。

この洋館は何度か増改築がなされており、現在確認できる範囲では、昭和2年(1927)に和館増築に併せ、洋館の外装など今回見るような姿に大きく変更された。 日本における郊外住宅の魁ともいわれるものだが、阪神大震災の際被害を受け、平成7年(1995)秋解体され、平成17年1月に修復工事に着手し、平成19年9月に竣工した。

 芝川家の記録には、明治44年に完成した建物を見た家族の「畳がリノリームになっただけで、まるで洋館らしいところはない」という言葉が遺されている。外壁は杉皮張、1階ホールは聚楽壁に網代と葦簾を市松状に用いた天井が用いられ、2階の座敷には暖炉が設けられるなど、全体として和の中に洋があしらわれた意匠であったが、関東大震災後の昭和2年に、隣接地に和館を増築する際、耐火を意識し、外壁はスパニッシュ風な壁に変更された。 関東大震災の際、木造建築が火災で大きな被害を受けたことから、外壁にスパニッシュ風な壁を用いることが大正末から昭和初期にかけて、特に関西を中心に大流行した。日本でスパニッシュと呼ばれる建築様式は、スペイン建築ではなく、スペイン系建築様式の影響を受けたアメリカの建築様式に影響を受けたものである。 武田五一は終生この芝川邸と深い関わりを持ち続け、創建時および度重なる増改築の際の図面や家具の設計図が遺されている。


博物館明治村 芝川又右衛門邸
1911(明治44)年
登録有形文化財
設計 : 武田五一
施工 : 不明
旧所在地 : 兵庫県西宮市上甲東園2丁目
犬山市内山3-68博物館明治村内
撮影 : 2011.9.22 & 2012.3.10
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 個人的には、明治村でお気に入りのベスト3に入る印象深い建築です。旧西尾家住宅に共通する、高級感のある上質の住宅建築。さすがに武田五一。
by gipsypapa | 2012-10-17 13:23 | 建築 | Trackback | Comments(2)

博物館明治村 宗教大学車寄

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 この建物は、現在明治村3丁目の岬の広場に「あずまや」の如く建てられているが、本来は明治41年(1908)東京郊外の巣鴨に新築された私立宗教大学本館の車寄であったものである。

 木造二階建の本館校舎は、講堂を中心に左右に教室を配した一文字型の大きな建物で、その正面にこの車寄があった。この高さ6.9mの車寄からも推し測られるように、本館はバロック風の大屋根を頂く壮大な明治末期の特色ある洋風建築で、車寄と同様、腰石には花崗岩が積まれていた。

 大正15年(1926)大正大学と改称された後も、長く校舎として使われ、椎尾弁匡をはじめとする宗教学の諸碩学が子弟の教育に当たった由緒ある建物でもあった。

 昭和43年(1968)2月、折から帝国ホテルの保存問題が世間の注目を集めていたが、この宗教大学本館が消え去ることを惜しみ、明治村では本館の俤を残すこの車寄部分を解体・保存した。


博物館明治村 宗教大学車寄
1908(明治41)年
登録有形文化財
設計・施工 : 不明
旧所在地 : 東京都豊島区西巣鴨
犬山市内山3-33博物館明治村内
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by gipsypapa | 2012-10-16 13:35 | 建築 | Trackback | Comments(2)

博物館明治村 神戸山手西洋人住居

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 それぞれ木造総二階建の主屋と付属屋からなる住宅であるが、建物の沿革は余り明確にはなっていない。明治20年代(1887~1896)に建てられたものと推定され、当初は外国人のものであったと思われるが、同29年(1896)には日本人増田周助の所有であったとの記録がある。

 先の長崎居留地二十五番館と同じ頃の外人住居であるが、雰囲気にはかなり違ったものがある。平家建でゆったりとした長崎二十五番館が明治初期の植民地住宅的な雰囲気を遺すのに対し、この神戸の建物はより本格的な西洋館になっている。これは、当時神戸が横浜と並んで貿易港として発展をみせており、建物にも洗練されたものが求められたためと考えられる。

 この住宅では、敷地が狭いという悪条件の中で建物をより良く見せるため、工夫がこらされている。ベランダの柱を整然とは建てず、場所によって二本、三本と並べ、その間隔もまちまちにすることにより、建物に変化を持たせ実際以上に大きく見せている。又、ベランダから室内へ数多くの出入り口を設けているのは、余り広くない室内をベランダと一体で使うための配慮であろう。

 主屋は上下階とも同じ間取りになっている。玄関、階段、中廊下を一まとめにし、左右に一部屋づつを配して、ベランダをL字に添わせている。付属屋一階には使用人が居たが、他のどの部屋とも結ばれておらず、主人家族のプライバシーの枠外とされていた。


博物館明治村 神戸山手西洋人住居
1887(明治20)年代
登録有形文化財
設計・施工 : 不明
旧所在地 : 神戸市生田区山本通
犬山市内山3-32博物館明治村内
撮影 : 2011.9.22 & 2012.3.10
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 こちらの小ぶりな附属棟も登録有形文化財です。
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by gipsypapa | 2012-10-15 13:01 | 建築 | Trackback | Comments(0)

博物館明治村 長崎居留地二十五番館

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 長崎居留地二十五番館は、長崎に3ヶ所あった居留地-東山手・南山手・大浦-のうち南山手二十五番の建物である。この建物の最初の居住者はスコットランド出身のコルダー(Calder,John Fulton)である。彼は1867年来日し、最初長崎のボイド商会に、その後横浜の三菱製鉄所、神戸の大阪造船所を経て、三菱が長崎造船所を国から払い下げを受けた際、マネージャーとして請われて再び長崎の地を踏んだ。当初は造船所近くの会社が用意した住宅に住んだが、明治22年に造船所のある飽の浦を見下ろす高台の南山手に居を構えた。大阪造船所時代には日本初の「ドライドック」を建造、また長崎造船所では日本初の鋼鉄船で昭和37年まで高島炭鉱と長崎を結んでいた「夕顔丸」を建造するなど、明治期日本の造船業の発展に寄与したが、明治25年病に倒れ、45歳の生涯を長崎で終え、現在も長崎の坂本国際墓地に葬られている。

 三方にベランダを廻らし、各室に暖炉を設けるなど典型的な居留地建築であるが、工法の上では古い点もあり、例えば、出入り口廻りの仕上げは化粧板を取り付けることなく、古い柱を削り出している。また、外壁は下地板の外に下見板を張り上げ、室内側は木摺下地に漆喰を塗り、防寒・防音に効果をあげている。その他、東南アジアのいわゆる植民地建築の影響を受け、軒が深くなっているため、屋根が冗長になるのを避け、本屋根からベランダの屋根を一段下げている。


博物館明治村 長崎居留地二十五番館
1889(明治22)年
登録有形文化財
設計 : 不明
施工 : 堀松太郎
旧所在地 : 長崎県長崎市南山手町
犬山市内山3-31博物館明治村内
撮影 : 2011.9.22 & 2010.3.10
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  本館完成から約20年後の明治43年(1910)、本館とは別の棟梁によって右奥に別館が増築された。和室も取り込んではいるが、外観は本館に合わせて洋風に仕上げられている。

博物館明治村 長崎居留地二十五番館別館
1910(明治43)年
登録有形文化財
設計・施工 : 不明
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 ちなみに本文にある日本初の「ドライドック」が作られた大阪鉄工所は私の勤める会社の前身です。
by gipsypapa | 2012-10-12 14:33 | 建築 | Trackback | Comments(2)

博物館明治村 菅島灯台付属官舎

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 菅島燈台は明治6年(1873)伊勢湾の入り口、鳥羽沖合の菅島に建てられた。品川燈台がフランス人の手になるのに対し、これはブラントンを頭とする工部省燈台局のイギリス人技術者の設計管理になるものである。明治初期の洋式燈台では、燈火の管理も外国人によって行われたため、付属の官舎もレンガ造の洋式住宅が建てられている。

 レンガ造の壁に木造の洋小屋を載せて桟瓦を葺いている。出入り口は両開きのガラス扉に鎧戸を付け、窓は上ゲ下ゲ窓でやはり鎧戸を備えている。

 建設に当たっては島の人々の協力があり、船着場から高台までの資材運搬等に従事したという。又、建物に使われたレンガや瓦も地元の産で、渡鹿野島の瓦屋竹内仙太郎が焼いた旨の刻印がある。移築のための解体も島民の協力を得て行われた。


博物館明治村 菅島灯台付属官舎
1873(明治6)年
重要文化財
設計 : リチャード・ヘンリー・ブラントン
施工 : 不明
旧所在地 : 三重県鳥羽市菅島町
犬山市内山3-30博物館明治村内
撮影 : 2011.9.22
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 レンガ積
  レンガは洋風建築の主要部材であり、ヨーロッパ各国でほぼ同形のものが使われていたが、積み方にはそれぞれの国の特徴がみられる。イギリス積は長手だけが見える段と小口だけが見える段が交互に重ねられる方法で、フランス積は各段毎に長手と小口が交互に並び、見た目が美しいと言われている。他にオランダ積等がある。フランス積という呼び名は日本独自のもので、「フレミッシュ(フランドル)積」が訛ったものと思われる。

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by gipsypapa | 2012-10-11 13:29 | 建築 | Trackback | Comments(2)

博物館明治村 品川灯台

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 安政5年(1858)欧米の列強5ヶ国と結ばれた通商条約に従って各地に港が開かれたが、列強国の関税率等に対する要求はさらに厳しくなり、慶応2年(1866)日本は改税約書を受け入れることになった。その第11条で開港場に出入する外国船のために燈台や航路標識を設けることが取り決められた。

 江戸幕府、ついで明治政府は燈台建設のための技術援助をフランス、イギリスに依頼、東京湾沿岸の観音崎、野島崎、城ヶ島、品川の4つの洋式燈台がヴェルニーを首長とするフランス人技術者の手によって建設された。

 この燈台は品川沖の第ニ台場の西端に建てられ、明治3年(1870)3月5日に点燈された。石油による光で100燭光、光源の高さは地上から19尺(約5.8m)海面上52尺(約16m)、光の届く距離は約18kmと記録されている。

 品川台場は、江戸防備のため江川太郎左衛門の計画に基づき幕末に急造された人工島で、当初は大砲を備えていた。観音崎など他の燈台がなくなった現在、現存最古の洋式燈台として貴重な遺構である。

 避雷針先端までの高さ約9m、円筒形レンガ造で、基礎、入口廻り、螺旋階段、デッキの支え等に石材を組み入れている。燈室の枠は砲金製、屋根は銅板製である。金属部、ガラスはいずれもフランス製であるが、レンガは建設当時フランスの技術者が工事を進めていた横須賀製鉄所のレンガを使用している。創建時には塔身の廻りに半円形の前室があったが、記録が詳らかでないため、塔身だけを復原している。


博物館明治村 品川灯台
1870(明治3)年
重要文化財
設計 : レオンス・ヴェルニー
施工 : 不明
旧所在地 : 東京都港区品川
犬山市内山3-29博物館明治村内
撮影 : 2011.9.22
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台場鼻潮流信号機
旧所在地 山口県下関市竹子島 設置年 明治42年(1909)

 潮の流れが激しい場所に船舶航行の安全のために設けられた信号機で腕木式信号機ともいわれる。この信号機は潮流の方向や速さを予測し船舶に伝えるものである。この竹子島の信号機の場合は黒い四角板が上70度の場合は東流中央期、上30度は東流初又は末期、赤い丸板が上70度の場合は西流中央期、上30度は西流初又は末期を表していた。なお、夜間は灯台の閃光の間隔、色によって表していた。
by gipsypapa | 2012-10-10 13:46 | 建築 | Trackback | Comments(2)

博物館明治村 茶室「亦楽庵」

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 「水を運び薪を取って湯をわかし、茶を立て仏に供え、人にも施し我も呑なり。花を立て香をたきて、皆々仏祖の行ひの跡を学ぶなり」(南方録)と千利休が教える茶の湯。上下貴賎の隔てなく、日本人の自然観、宗教観、芸術観によって伝えられてきた茶道のための舞台装置としての茶室は、また日本人の建築美学の追求でもあった。

 門から待合へ、そして露地、蹲踞へとめぐるうち、小さな庭に人は大自然を感じ、これから訪れる語らいの時に胸を開く。そして二間四方に満たない小さな空間で、茶を仲立ちに悠久の時を過ごすのである。

 利休の目指した茶室では、華美や豪華は極力避けられ、素朴な構成が追求された。又、庭の自然の只中にありながら四方の壁をきっちり囲み、窓には単なる明かり採りとしての意味しか持たせず、狭い空間に大自然を創造しようとした。

 「亦楽庵」では京都の医家、漢学者であった、福井恒斎が、明治10年(1877)頃自宅の庭に建てたものと伝えられる。

 利休以後、茶室は様々な形が創出されるが、その多くは、より小さな空間へと向かい、閉じられた形が継承されてきた。しかし、この「亦楽庵」では開け放つ試みがなされており、利休四畳半(本勝手)の茶室の一方に引き違い障子戸を建て、瓦を敷いた土間を介して庭との結び付きを求めている。


博物館明治村 茶室「亦楽庵」
1877(明治10)年ころ
登録有形文化財
設計・施工 : 不明
旧所在地 : 京都市北区小松原北町
犬山市内山3-28博物館明治村内
撮影 : 2011.9.22
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by gipsypapa | 2012-10-09 15:52 | 建築 | Trackback | Comments(0)

博物館明治村 西園寺公望別邸「坐漁荘」

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 西園寺公望は明治3年(1870)法学を学ぶため渡仏、10年間滞在した後帰国し、中江兆民等と東洋自由新聞を発刊、ブルジョア自由主義の普及に努める。廃刊後は政府に入り、憲法調査のため伊藤博文に従って外遊、次いで各国公使、各大臣を歴任し、明治39年(1906)には伊藤博文のあとを受け、政友会を率いて内閣を組織した。その政治姿勢は終始平民主義を貫き、その後、我が国の元勲と呼ばれるにいたった。

 この「坐漁荘」は西園寺公望が政治の第一線から退いた後、大正9年(1920)に駿河湾奥、清水港近くの興津の海岸に建てた別邸である。旧東海道に沿って建てられた低い塀の奥に、玄関、台所、二階建座敷等の屋根が幾重にも重なる。木造桟瓦葺で軒先に軽い銅板を廻らした純和風建物であるが、小屋組には強い海風に耐えられるよう工夫がみられ、梁を斜めに渡し、鉄筋の水平筋違いを十字に張っている。

 「坐漁荘」の名には“なにもせず、のんびり坐って魚をとって過ごす”という意味がこめられていたが、実際には事あるごとに政治家の訪問を受けざるを得なかった。

現在、二階の座敷の障子を開け放つと、遠い山並みを背景に入鹿池が見渡せる。興津に建てられた当時は、右手に清水港から久能山が、左手に伊豆半島が遠望された。

 昭和4年(1929)、海に面した座敷の横に洋間が、又、その奥には脱衣室を兼ねた化粧室や洋風便器の置かれた便所等が増築された。晩年になって別邸に洋間を設けたことは、若い時から西欧に遊学し、洋風生活に親しんでいたとは言え、洋間の居住性を評価する上で面白い。


博物館明治村 西園寺公望別邸「坐漁荘」
1920(大正9)年
登録有形文化財
設計 : 則松幸十
施工 : 不明
旧所在地 : 静岡県清水市興津町
犬山市内山3-27博物館明治村内
撮影 : 2011.9.22
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 「日本庭園的生活」に再現された興津坐漁荘が紹介されています。
by gipsypapa | 2012-10-07 08:40 | 建築 | Trackback | Comments(6)

博物館明治村 幸田露伴住宅「蝸牛庵」

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 明治10年代(1877~1886)、下火となっていた戯作文学が、自由民権論、国権論、アジア主義等の隆盛に呼応した政治小説の形で復活してくるが、これとは別に人間の内面を描き出そうとする動きも出てきた。明治18年(1885)坪内逍遥は「小説神髄」を刊行して小説の新しい方向を提唱、これに応じる形で二葉亭四迷の「浮雲」が生まれたが、逍遥の内面尊重の主張はさらに幸田露伴へと受け継がれ、東洋的な観念を主題とする作品に結実してゆく。

 露伴は幼少の頃算術を得意とし、長じて電信を学び、電信技手を勤めるが、傍ら漢籍や仏書を読破し、「小説神髄」に触発されて明治20年(1887)21才の時、官を辞した。その翌年発表した処女作「禅天魔」が尾崎紅葉の目にとまると、文筆の世界に足を踏み入れ、「風流仏」「対髑髏」「五重塔」等次々に発表、紅葉とともに紅露時代として一世を風靡した。

 露伴は自分の家を「かたつむりの家(蝸牛庵)」と呼び、やどかりのように幾度となく住まいを変えている。隅田川の東にあったこの家もその内の一つで、明治30年(1897)からの約10年間を過ごしている。周辺には江戸時代から豪商の寮(別邸)や下屋敷が多く、この建物もその雰囲気を伝えるとともに、深い土庇のある座敷には水鳥を形どった釘隠しが付けられ、墨東の名残もとどめている。

 町屋と異なり、まわりの広い庭に自由に延び拡がった建物で、廊下を軸に玄関、和室、付書院のある座敷が千鳥に配されている。


博物館明治村 幸田露伴住宅「蝸牛庵」
1868(明治初)年
登録有形文化財
設計・施工 : 不明
旧所在地 : 東京都墨田区東向島
犬山市内山3-26博物館明治村内
撮影 : 2011.9.22
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by gipsypapa | 2012-10-03 13:46 | 建築 | Trackback | Comments(2)