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博物館明治村 宇治山田郵便局

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 明治3年(1870)太政官から郵便事業開始の達示が出され、翌4年には郵便の利用方法についての細かい規則が布告された。これに伴ない、同年東京江戸橋に日本最初の郵便役所(郵便局)が建てられ、近代郵便事業が開始された。その後各地に郵便役所が建てられ、伊勢の宇治山田にも同5年わずか4坪(13.2㎡)の小さな役所が開業した。郵便事業が近代国家の一翼を担って発展し、電信電話事業をも行うようになると、事業の拡大につれて、宇治山田郵便局は移転につぐ移転を重ね、明治42年(1909)伊勢外宮前の角地にこの建物を新築した。
 
 木造平家建銅板葺で、中央には円錐ドームの屋根を頂き、両翼屋には寄棟の屋根をふせており、正面の左右には小ドームの載る角塔を立てている。外装はハーフティンバー様式で、漆喰塗と下見板張の壁が使いわけられ、欄間部分には漆喰塗のレリーフが施されている。窓には3段或いは4段の回転窓が付けられているが、これは他に余り例をみない形式である。

 入口を入ると円形の「公衆溜」と呼ばれたホールがあり、その周囲にはカウンターが廻らされている。ホールの天井は、まわりの事務室部分より一段と高くされ、高窓から光を入れている。天井の中心からはチューリップ型のシャンデリアが下げられている。このように公衆用のホールを中心に据えた形は、新時代の計画といえよう。


博物館明治村 宇治山田郵便局
旧伊勢郵便局舎
1909(明治42)年
重要文化財
設計 : 白石圓治
施工 : 岡田斉次郎

旧所在地 三重県伊勢市豊川町
犬山市内山4-46博物館明治村内
撮影 : 2011.9.22 & 2012.3.10
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by gipsypapa | 2012-11-02 13:20 | 建築 | Trackback | Comments(0)

博物館明治村 工部省品川硝子製造所

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 明治6年(1873)イギリス人技術者を雇い入れて、品川興業社硝子製造所が開設された。同9年工部省がこの製造所を買い上げ官営とし、その後この建物等が建てられた。壁体はレンガ造イギリス積、屋根には瓦を葺いている。開口部はアーチ式のものが主体であるが、右側三分の一ほどに式の開口がある。この部分の内部に中二階の床があるためである。

 工部省は、日本に近代工業を根付かせ、その発展を図るために明治3年(1870)設置された役所で、その目的は極めて広く、鉄道、土木、燈台、造船、電信、製鉄などの実技面から、工学技術教育に至るまで網羅された。早急な育成のため、設備、技術者など必要なもの一切を導入する方針がとられ、各地に多業種の工場が建設され、多数のお雇い外人が来日指導に当たった。
 この硝子製造所でも、イギリスのガラス工ウォルトン、スピートなどが指導に当たり、フリントガラスの製造設備をもって、食器など日用ガラス器の製作をしていた。明治14年頃には板ガラスの製造テストも行われたが、成功しなかった。

 明治18年(1885)この工場は民間に払い下げになり、明治末に三共合資会社製薬場となって、有名な高峰譲吉や鈴木梅太郎の創製により薬品も製造された。

 建物の内部は、間仕切がなく一つの部屋になっており、片側約三分の一に中二階が設けられており、厚いレンガの壁体に梁を差し込んで床を支えている。小屋組は典型的なキングポストトラスで棟上に換気用の越屋根が載せられている。

 復原に当たり、補強のため周囲のレンガ壁体の頂部に鉄筋コンクリートの臥梁を廻らした。 現在は一階を店舗に、中二階を展示室に活用している。


博物館明治村 工部省品川硝子製造所
1877(明治10)年ころ
登録有形文化財
設計・施工 : 不明
旧所在地 東京都品川区北品川
犬山市内山4-45博物館明治村内
撮影 : 2011.9.22
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 明治期における国内のガラス工業は日用ガラス器生産が殆どであった。建築材料として必要な板ガラスは、幾度かの試みにもかかわらず成功せず、国産化が実現したのは、明治42年になってからである
by gipsypapa | 2012-11-01 09:47 | 建築 | Trackback | Comments(5)

博物館明治村 鉄道寮新橋工場・機械館

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 日本の鉄道はあらゆる技術をイギリスから導入して開発された。明治5年(1872)に開業した新橋ステンショ(停車場)には、停車場本屋、乗降場、荷物庫、荷物積所、石炭庫、機関車庫、機関車修復所、御雇外国人官舎等が造られた。この中の機関車修復所が、ここに遺る新橋工場である。

 鋳鉄柱をはじめ外壁の鉄板、サッシ等、全ての材料をイギリスから輸入し、イギリス人技術者の指導の下に建設された。中空鋳鉄柱の両側にツバを出して壁板を取り付け、又、鉄筋など細い鉄材で小屋組トラスを組み上げる等、鉄造プレハブ建築物としても重要なものであり、またきわめて単純で構造力学の理にかなったものである。

 現在、この建物は二棟が並んだ大きなものになっているが、はじめ新橋に建設された時は一棟だけで、大正のはじめ大井町への移設の際に拡張された。その際他から転用された鋳鉄柱等には「明治十五年東京鉄道局鋳造」と銘が鋳出されているが、これは明治10年代に早く舶来品を模して国産化が始められたことを物語る。明治村では、広い工場の内部を明治の機械類の展示場として活用している。


博物館明治村 鉄道寮新橋工場・機械館
1872(明治5)年
登録有形文化財
設計 : F.C.クリスティー
施工 : 不明
旧所在地 : 東京都品川区大井町
犬山市内山4-44博物館明治村内
撮影 : 2012.3.10
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ここは建物より展示された年代物の貴重な機械類が見ものです。写真とは対応しませんが、リング精紡機1893(明治26)年や菊花御紋章付平削盤1878(明治12)年などの国の重要文化財が展示されていました。
by gipsypapa | 2012-10-31 13:04 | 建築 | Trackback | Comments(4)

博物館明治村 六郷川鉄橋

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 明治5年、日本に初めて鉄道が開業された時、新橋横浜間に造られた大小22の橋は全て木橋であった。イギリスから鉄材を輸入して組み立てていたのでは、間に合わないという理由であった。開通の後、複線化の計画と共に鉄橋への架け替えが進められ、明治10年11月、日本最初の複線用鉄橋として、この橋が完成した。開通式は、時の工部卿伊藤博文も出席して、盛大に行われたと伝えられている。

 橋の全長は約500mで、本橋と避溢橋からなり、本橋部に長さ100feet(約30m)の錬鉄製トラス桁(ポニー・ワーレン型)六連が使われていた。当時のお雇い外人、土木技師ボイル(英人)の設計したもので、明治8年(1875)英国リバプールのハミルトンズ・ウインザー・アイアンワークス社で製作され、輸入された。

 明治45年、東海道線の複々線化に際してこの鉄橋は外され、単線用に改造された上、大正4年、御殿場線の酒匂川にかけられた。そして昭和40年、酒匂川でもその役目を終え、90年に及んだ現役の座を退いた。

 復元に際し、狭められていた橋の幅員を創建当時のように複線に再改造、橋台・橋脚の姿も古い資料を基に復元設計し、石とレンガで構築、縦枕木、双頭レールなど軌道関係も旧状にならって敷設した。


博物館明治村 六郷川鉄橋
1877(明治30)年
登録有形文化財
設計 : ボイル(R.V.Boyle)
鉄骨材料 : HAMILTON’S WINDSOR IRONWORKS社
施工 : 不明
旧所在地 : 東京都蒲田・神奈川県川崎間の六郷川(多摩川下流)
犬山市内山4-41博物館明治村内
撮影 : 2011.9.22 & 2012.3.10
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 尾西鉄道が開業するにあたり、アメリカのブルックス社から購入した機関車である。形式は2B1とよばれる前輪2軸、動輪2軸、従輪1軸のタンク式である。尾西鉄道は明治29年に会社設立、明治31年には弥富―津島間が、同33年には弥富―新一宮間が開業した。大正14年に尾西鉄道と名古屋鉄道が合併した際、この車両は名古屋鉄道の所有になり、その後新潟県の信越線二本木駅に隣接する日本曹達株式会社内の工場専用機として入替作業に従事した。

尾西鉄道蒸気機関車1号
製造年代 1897(明治30)代
製作 : アメリカ ブルックス社(Brooks Locomotive Works)
犬山市内山4-42博物館明治村内
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by gipsypapa | 2012-10-30 13:24 | 建築 | Trackback | Comments(2)

博物館明治村 ハワイ移民集会所

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 ハワイ島の町ヒロのワイルック川のほとりに、日本人牧師岡部次郎氏によって日本人のために建てられた教会であった。その後教会の役目を終えると、周辺の日本人の集会所となり、さらにヒロの英字新聞社の倉庫として使われるに至った。その頃は屋根を取りはらわれ、二階が増築されて、姿がかなり変わっていた。

 移築当初、原形をとどめていた一階部分だけを復原したが、その後の調べで古写真が発見されたため、屋根を創建時の姿にもどし、建物周囲の柵や入口の橋などを補った。

 単純な長方形平面の教会で中は一室になっている。正面入口の上にペディメントを飾り、軒蛇腹にデンティルコース(櫛型装飾)をめぐらせ、正面妻壁の中央に三角形の屋根換気口を開けている。外壁は洋風下見板平張、屋根は波形鉄板葺である。

 この建物にある地方色としては、床が高いことが挙げられる。未だ開発の進まない土地では、治水もあまり完全ではなかったであろう。川のほとりの建物では、出水のことや日頃の湿気の心配があったと考えられる。

 この建物の傍らに掲げられている国旗はハワイ王国の国旗である。また、建物入口に取り付けられた太鼓橋は、ハワイ島のヒロ市が雨の多いところで、建物周辺は常にぬかるんでいるため、ぬかるみを歩かず室内に入ることができるように設けられたものである。建物左手の鐘は「ペペケオ耕地の鐘」といい、移民たちは毎朝4時半にこの鐘で起床し、朝6時の開始の鐘から昼の30分の休憩をはさみ夕方4時半の終了の鐘まで10時間の肉体労働に従事した辛い記憶の鐘である。建物右奥にある白い「×」印のものはさとうきびを運んだシュガートレインの「踏切」の標識である。


博物館明治村 ハワイ移民集会所
1889(明治22)年ころ
登録有形文化財
設計 : 岡部次郎牧師
施工 : 不明
旧所在地 アメリカ・ハワイ州ヒロ市
犬山市内山4-40博物館明治村内
撮影 : 2011.9.22
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by gipsypapa | 2012-10-29 13:51 | 建築 | Trackback | Comments(3)

博物館明治村 ブラジル移民住宅

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 明治41年(1908)の日米紳士協約により、アメリカへの新規移民が大きな制約を受けるようになると、代わって南米への移民が開始され、明治41年(1908)には781名の日本人が契約労働者として笠戸丸ではじめてブラジルへと渡航、サンパウロ周辺でコーヒー栽培に従事した。その後、ブラジルへの移民は年々増加し、昭和初年の最盛期にはその数は年間二万数千人にも及んだ。

 この建物はある日本人移民が、慣れないコーヒー栽培に苦闘を重ねながら、密林を拓いて造った家の一つである。現地産の堅い木材を加工して造られているが、入植者の中の日本人大工の手が入り、小屋組、継手、仕口等には和風の工法が使われている。一方、二階に設けたベランダや、片開き板戸を付けた窓、スペイン瓦を葺いた屋根等、土地の風土に合わせた素朴さがただよっている。現在裏側になっている下屋が入口と台所を兼ねていたと思われ、下屋から二階の居室への内階段が設けられている。尚、建物横手の外階段は後補のものである。


博物館明治村 ブラジル移民住宅
1919(大正8)年
登録有形文化財
設計・施工 : 不明(日本人大工)
旧所在地 : ブラジル・サンパウロ州 レジストロ市
犬山市内山4-39博物館明治村内
撮影 : 2011.9.22
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 瓦は粘土をこねて成型、燃成されるが、世界各国で様々な形が発達した。
●和瓦 中国伝来の形が日本的に進化したもので、平瓦、丸瓦、桟瓦、鬼瓦、巴瓦等、使用する個所によって様々な形がある。
●洋瓦 和瓦に対し、西欧で使われた形のもので、スペイン瓦、フランス瓦、イタリア瓦、イギリス瓦等それぞれに特色を持つ。

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by gipsypapa | 2012-10-26 09:36 | 建築 | Trackback | Comments(5)

博物館明治村 シアトル日系福音教会

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 日本からアメリカ本土への移民は、戊辰戦争に敗れた会津若松藩士数十名が明治2年(1869)カリフォルニア州に入植、若松コロニーを開いたことに始まると言われる。この試みは失敗に終わるが、日米間の労働力の需要・供給の関係で、日系移民は明治中期からその数を増し、明治29年(1896)シアトル航路が開かれたこともあり、明治末から大正期にかけて最盛期を迎えることになる。

 一方、シアトルは1889年(明治22)町の中心部を焼き尽くす大火にみまわれたが、大改造をもって立ち直り、20世紀初頭からは漁業と林業の基地として発展していく。住宅地も周辺の山地を開発して新たに造成されていくが、この建物もその新興の住宅地の中に1907年(明治40)頃建てられたものである。

 大量生産による規格木材を使用して造られており、現代のプラットフォーム構法(2×4構法)の先駆的な実例である。屋根には地元産のそぎ板を葺き、外壁、床等は全て下地板と仕上げ板の二重張りになっている。

 当初はアメリカ人の住まいであったが、1930年代(昭和5~14)に日系移民の所有となった。アメリカに渡ってから長い苦難の年月を経て手に入れた一軒の家であったが、第二次世界大戦時、強制収容により家を追われ た。戦後は日系一世のための福音教会として使われてきたが、一世の高齢化と減少という時の流れの中でそ の役目を終え、明治村に移築された。

 玄関ホール正面に二階への階段が設けられている。細かい細工が施された階段の親柱は、プレハブ建築の通例通り、単に床の上に置かれているだけで、床下から釘止めされている。又、細かい細工も彫刻ではなく、細い木材を釘止めして作られたものである。

 玄関ホール横の会堂は、住宅として使われていた時には二つの居間に分かれていたが、間仕切扉が散逸してしまっているため復原できなかった。規格木材を釘打ちして造る2×4構法では、仕口、継手の痕跡がないため、改造個所の元の姿を推定することが難しい。


博物館明治村 シアトル日系福音教会
旧シアトル住宅
1907(明治40)年
登録有形文化財
設計・施工 : 不明
旧所在地 : アメリカ・ワシントン州シアトル市
犬山市内山4-38博物館明治村内
撮影 : 2011.9.22 & 2012.3.10
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by gipsypapa | 2012-10-25 13:39 | 建築 | Trackback | Comments(0)

博物館明治村 名古屋衛戍病院

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 日本人による最初の洋式病院は明治4年(1871)横浜に造られた横浜共立病院で、これは貿易商組合の出資による私立の病院であったが、本格的な洋式の大病院を計画し、実行に移したのは軍隊で、全国の鎮台配置に合わせて陸軍衛戍病院が明治6年(1873)の東京を皮切りに順次整備されていく。明治11年(1878)に建てられた名古屋衛戍病院は、六棟の病院が中庭を囲んで配される分棟式の配置がとられていたが、これは洋式大病院の典型的な形式で、日本赤十字社中央病院にも踏襲されている。現在明治村に遺されているのは、病棟のうちの一棟と管理棟である。

 木造平家建桟瓦葺で、周囲に吹き放ちのベランダを廻らせた姿は大変開放的で明るく、清潔感にあふれた印象を与える。細部のデザインは、同じ陸軍の施設である歩兵第六聯隊兵舎のものとよく似て質素なものになっているが、構造的には兵舎と若干異なり、漆喰塗大壁で囲まれ、小屋組も和小屋になっている。

 三重県庁舎(明治12年)とほぼ同じ頃の創建であるが、県庁舎が様々な洋風のデザインを取り入れているのに対し、この衛戍病院のデザインは簡素にまとめられている。手摺等は素木に少しの面取り(角を落す手法)を施すのみで、窓の額縁も曲線を使わず、単に段切りをしているだけである。


博物館明治村 名古屋衛戍病院
1878(明治11)年
愛知県有形文化財
設計・施工 : 不明
旧所在地 名古屋市中区三の丸
犬山市内山4-37博物館明治村内
撮影 : 2011.9.22
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by gipsypapa | 2012-10-24 13:03 | 建築 | Trackback | Comments(2)

博物館明治村 歩兵第六聯隊兵舎

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 幕末、維新の動乱時、度重なる列強国の軍事的示威行動をまのあたりにして、幕府、雄藩は軍事力の近代化の必要性を痛感した。薩摩、長州がイギリスに教えを受けたのに対し、幕府はフランス方式を取り入れ、これが明治政府にも引き継がれて、日本陸軍の基礎が形成されていく。明治4年(1871)東北から九州まで四分割された各区域にそれぞれに鎮台が置かれ、同6年(1873)には広島、名古屋にも鎮台が設けられた。各鎮台のもとには歩兵聯隊が置かれるが、名古屋鎮台の管内では名古屋と金沢に組織され、名古屋に置かれたものが歩兵第六聯隊である。

 明治政府は単に軍事組織や訓練方法だけでなく、兵舎等の軍用建造物についてもフランスから学んでおり、明治6年(1873)の聯隊創設時に建てられた歩兵第六聯隊兵舎も、フランスの建築書を基に海外の例に学んで造られた。現在明治村に遺るのは、方形の営庭を囲んで配されていた兵舎のうちの一棟で、もとは50mを超える長い建物であったが、移築に際し約三分の二に切り縮められている。

 単純な四角形の上ゲ下ゲ窓が並び、素朴な印象を与えるが、構造は大変頑丈で、外側の柱は全て土台から軒に達する太い通し柱になっており、壁下地になる木摺を斜めに打ち、瓦を張って、白漆喰で仕上げている。このため、地震にも火災にも強く、断熱性も高い。

 尚、創建当時の窓は現在の約半数であったが、のちに室内を明るくするため増設されている。明治村では屋内の展示環境も考慮し、増設された状態で復原している。

 木製のベッドが並ぶ内務班。全ての家具が耐久性に重点を置いて作られている。他に中隊長室、下士官室等が当時の姿に復原されている。


博物館明治村 歩兵第六聯隊兵舎
1873(明治6)年
登録有形文化財
設計 : 不明
施工 : 竹中藤右衛門
旧所在地 : 名古屋市中区二の丸
犬山市内山4-36博物館明治村内
撮影 : 2011.9.22 & 2012.3.10
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by gipsypapa | 2012-10-23 11:32 | 建築 | Trackback | Comments(2)

博物館明治村 日本赤十字社中央病院病棟

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 明治10年(1877)西郷隆盛が九州で挙兵した西南戦争の際、敵味方の区別なく傷病兵の救護に当たった博愛社が日本赤十字社のはじめである。明治19年(1886)日本政府がジュネーブ条約に加盟、日本赤十字社と名を改めるが、その折皇室から渋谷の御料地の一部と建設資金10万円が下賜され、同23年この病院が建設された。

 中庭を囲む分棟式の木造様式病院で、赤坂離宮と同じ片山東熊の設計であるが、離宮と異なり、大変質素で落ち着いた建物になっている。移築に際し、敷地の制約のため建物の方位が180度変えられており、現在南に面している前面ガラス張の廊下は本来北側にあったもので、暗くなりがちな北面を明るくするための意匠である。外部はハーフ・ティンバーを模したデザインを基調にしているが、細部にも楽しさがあふれている。現在北側になって目立たないが、病室窓の鎧戸の上部には手の込んだ透しがあり、軒の飾りも細かい影を落としている。又、棟上の換気塔等も、本来の目的を忘れさせるような楽しい形に作られている。


博物館明治村 日本赤十字社中央病院病棟
1890(明治23)年
登録有形文化財
設計 : 片山東熊
施工 : 不明
旧所在地 : 東京都渋谷区広尾
犬山市内山4-35博物館明治村内
撮影 : 2011.9.22
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 病院の正面を飾っている額で、桐、竹、鳳凰が浮き彫りにされている。草創期の日赤をもりたてた昭憲皇太后のアイデアを基にしたものと言う。
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 赤十字のはなし。赤十字は、戦時における戦傷者の看護を目的として作られた国際組織である。クリミア戦争におけるナイチンゲールの献身的な活動が人々に感銘を与えた後、1859年のイタリア統一戦争の際、両軍の軍医らに呼びかけて医療の先頭に立ったのが、赤十字生みの親、アンリ・デュナンである。その後、彼の提唱のもとに1864年ジュネーブ条約が調印され、赤十字が創設された。

 ヨーロッパの赤十字活動を見聞し、日本でその創設に関わったのは佐野常民である。西南戦争の勃発を知った彼は博愛社を設立して、兵士の救護にあたった。戦後もその組織を存続させ、明治20年日本赤十字社と名を改めるとともに、万国赤十字同盟に加盟するに至った。

 1920年(大正9年)以来隔年ごとに、ジュネーブの赤十字国際委員会により、看護婦の最高栄誉としてナイチンゲール記章がおくられている。明治村のこの病棟の中には、その栄誉に輝いた日本の人々の写真を掲げている。

by gipsypapa | 2012-10-19 15:13 | 建築 | Trackback | Comments(4)