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博物館明治村 大明寺聖パウロ教会堂

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 キリスト教は天文18年(1549)、宣教師フランシスコ・ザビエルによって伝えられたが、その後、豊臣秀吉、次いで徳川家康の政権時に禁制となり、実に二百数十年を経た、明治6年(1873)に禁教が解かれた。

 この建物は明治12年(1879)頃、長崎湾の伊王島に創建された教会堂である。開国後、長崎の町に建てられた最初の教会は大浦天主堂(1865年完成)で、それから15年後のことであった。

 大明寺教会堂は、フランス人宣教師ブレル神父の指導のもと、地元伊王島に住んでいた大渡伊勢吉によって建てられた。若い頃、大浦天主堂の建設にも携わった伊勢吉は、当時の知識をこの教会堂に注ぎ込んだのである。

 内部こそゴシック様式だが、外観は、鐘楼を除けば、普通の農家の姿に過ぎず、いまだキリスト教禁制の影響を色濃く残している。教会堂内部は、一般的には中央身廊と左右側廊からなる三廊式である。

 明治村の聖ザビエル天主堂などの典型的なゴシック様式の教会堂では、列柱は大きなアーチでつながれ、大アーケードと呼ばれるが、この大明寺教会堂では一本おきに柱頭飾りから下の柱を取り払った姿になっている。連なる小さなアーチのそれぞれに柱を建てると堂内が大変窮屈になってしまうためで、木造だからできた離れ業といったところだろう。

 正面の土間や鐘楼は、創建後の増築である。このような地方の教会は創建の時に全てが完成しているものではなく、時代を経て少しづつ人々の手が加えられたのである。

 「コウモリ天井」とは、建築用語で「交差リブヴォールト」と言い、西洋のゴシック様式の教会建築によく見られる。柱の間に渡されたアーチ型のリブを骨として天井を支えている。この教会では木製のリブを骨として、竹小舞を球形の鳥籠のように編み上げ、両面に荒土、漆喰を塗り重ねてある。ちなみに「コウモリ」とは、骨の姿がコウモリ傘に似ているからである。

 また左右の側廊の天井は、日本風の「竿縁天井」を少し曲げて曲面にし、西洋のヴォールト天井に似せたものと思われる。


博物館明治村 大明寺聖パウロ教会堂
1879(明治12)年
登録有形文化財
設計 : ブレル神父+大渡伊勢吉
施工 : 大渡伊勢吉
旧所在地 : 長崎県西彼杵郡伊王島
犬山市内山5-56博物館明治村内
撮影 : 2012.3.10
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 1858年、フランス、ピレネー山麓の町ルルドのとある洞窟で聖母マリアが出現するという奇跡が起こった。それにあやかって世界各地の教会で「洞窟」の再現が行われた。それが、「ルルドの洞窟」である。

 通常、「ルルドの洞窟」を設ける時には、教会敷地の一部に岩山を作り、洞窟を掘るのであるが、この大明寺教会堂では室内に設けられており、それだけに、日本でも珍しい教会堂として数えられる。押入れのような凹みに小さな鳥籠状の竹小舞を編み上げ、岩の様に泥を塗りつけて仕上げてある。

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by gipsypapa | 2012-11-15 13:13 | 建築 | Trackback | Comments(2)

博物館明治村 隅田川新大橋

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 日本の鉄橋の中で、古く有名なものとしては、鉄道橋では明治10年(1877)東海道線六郷川に架けられた六郷川鉄橋、道路橋では旧京橋区楓川の弾正橋(明治11年架橋、重要文化財)、そして隅田川に架けられた五大橋があげられる。五大橋とは、上流から順に吾妻橋、厩橋、両国橋、新大橋、永代橋のことで、明治の五大橋と言われ、デザインはそれぞれに異なっていた。

 新大橋は、明治45年五大橋の最後の橋として日本橋浜町と深川安宅町の間に架けられた。設計監理には東京市の技術陣が当たったが、鉄材は全てアメリカのカーネギー社の製品が使われている。これは、明治の末においても未だ我が国の鉄材の生産量が乏しかったためと考えられる。

 竣工後間もなく、橋を渡って市電が開通し、橋の役目は一層高まるが、大正12年の関東大震災の折には、他の鉄橋が落ちる中で、この新大橋だけが残り、避難の道として多数の人命を救った。

 全長180m、途中に2箇所の橋脚が立つ三径間の橋で、形式はプラットトラス型という。中央に車道を通し、両側には歩道を張り出している。路面は厚い鉄板の上にコンクリートを打ち、仕上げにアスファルト板を敷いていた。明治村に移築されているのは、日本橋側の一径間の半分、25m分である。

 力感あふれるトラスと対照的に、まわりには繊細な装飾が見られる。歩道の高欄もその一例で、細かい鉄材を組み合わせたデザインは曲線を多用したアールヌーボー風で、かたい橋の印象を柔らかなものにしている。また、橋の両たもとに置かれた白い花崗岩製の袖高欄と親柱は、線で構成された橋に対し、程良いアクセントとなっている。


博物館明治村 隅田川新大橋
1912(明治45)年
登録有形文化財
設計・施工 : 不明
旧所在地 : 東京都中央区浜町から江東区深川新大橋
犬山市内山5-55博物館明治村内
撮影 : 2012.3.10
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by gipsypapa | 2012-11-14 13:01 | 建築 | Trackback | Comments(2)

博物館明治村 天童眼鏡橋

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 この石造アーチ橋は明治20年(1887)将棋の駒で有名な山形県の天童に、それまであった木橋に替えて架けられたもので、「多嘉橋」と呼ばれた。幅7.7m、長さ13.3m、拱矢比(アーチ径間と高さの比)2.6のゆったりとしたアーチ橋で、地元の山寺石を積んで造られている。

 アーチ構造の歴史は古く、紀元前4000年のチグリス・ユーフラテス地方にその原形を見ることができる。時代が下がって古代ローマに伝えられ、ローマ建築の基本構造に発展した。その構造は橋にも使われており、有名な水道橋に見られるように、築造技術は既に頂点に達していた。日本でのアーチ橋の初期の実例としては、江戸初期に造られた長崎の眼鏡橋があげられる。技術的には中国からの伝来と考えられ、そののち九州に多く架けられていったが、明治に入ると、欧米からの技術も加えられ、各地で架けられるようになった。日本の場合、欄干の組み立てなどには木造の技術も応用され、親柱に手摺を差し込むなどの構法がなされている。


博物館明治村 天童眼鏡橋
1887(明治20)年
登録有形文化財
設計・施工 : 不明
旧所在地 山形県天童市天童から老野森
犬山市内山5-54博物館明治村内
撮影 : 2011.9.22 & 2012.3.10
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 石造でもレンガ造でも同じであるが、アーチは「迫持ち」という原理によって成り立っている。くさび型の材料を円弧上に積み上げ、個々のくさび型の部材がその重量で中心へ落ち込もうとすることにより、隣り合う部材同士がきつく密着して、全体として形を保つ。その構造上、アーチを作る材料は十分に強固な材料でなければならず、かつ上部の重量も十分にあることが必要である。

 東京御茶の水の聖橋などは、アーチの応用例で、アーチの部分を厚い鉄筋コンクリート造とし、上部の重量が重くなりすぎないように束を立てて道路面の重量だけをアーチに伝えている。

by gipsypapa | 2012-11-13 12:59 | 建築 | Trackback | Comments(2)

博物館明治村 小那沙美島燈台

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 小那沙美島燈台は、広島湾から瀬戸内海への出口、宮島の脇の小さな島である小那沙美島に明治37年(1904)建造された。

 広島には明治6年(1873)に鎮台が置かれ、同19年(1886)には第五師団指令部が配備された。更に同21年東京築地にあった海軍兵学校が江田島に移され、続いて呉に鎮守府が開設される等、広島湾沿岸は軍事上、産業上の要所として重きをなしていた。日清戦争の際には広島に大本営が移され、広島の外港宇品から物資の輸送が行なわれており、日露戦争の際にも運輸本部が広島に置かれている。この燈台が造られたのは、その日露戦争の開戦前後で、わずか3ヶ月という短い期間で建造されている。

 工期を短縮する目的と、急傾斜の山に造る上での便宜から、鋳鉄造の組み立て式燈台になっている。4段の円筒形燈柱に燈篭と天蓋が載せられており、高さは7m足らずである。光源にはアセチレンガスを用い、光度は60燭光、光の届く距離は約10kmであった 。


博物館明治村 小那沙美島燈台
1904(明治37)年
登録有形文化財
設計・施工 : 不明
旧所在地 広島県佐伯郡沖美町
犬山市内山5-53博物館明治村内
撮影 : 2011.9.22 & 2012.3.10
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by gipsypapa | 2012-11-12 10:06 | 建築 | Trackback | Comments(2)

博物館明治村 金沢監獄正門

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 明治5年(1872)「監獄則並図式」が公布される。これは近代的な監獄制度と、それに合った洋式の放射型監獄舎房の規範を示したものであった。この方針に沿って新監獄の建設が始まり、明治12年(1879)先ず六方放射型の宮城集治監が建設され、その後各地で建設が進んだ。金沢監獄が造られたのは明治40年(1907)のことである。南北250m、東西190mの敷地はレンガ造の高い塀で囲われ、唯一西面に開けられていたのがこの門であった。

 レンガ造に石の帯状装飾を入れるのは当時の洋風建築の流行で、明治村の正門として使われている旧第八高等学校正門と比較してみるのも面白い。西洋の城郭の門にも似て、左右に二階建の看視塔を建て、中央にアーチ型の主出入口、両側に脇出入口を備えている。看視塔への出入口を門の内側にしか設けず、窓も小さくして鉄格子を入れていること等、閉鎖的でいかめしい感じを与えるものの、実に美しい門である。


博物館明治村 金沢監獄正門
1907(明治40)年
登録有形文化財
設計・施工 : 不明
旧所在地 : 石川県金沢市小立野
犬山市内山5-52博物館明治村内
撮影 : 2011.9.22 & 2012.3.10
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by gipsypapa | 2012-11-09 13:12 | 建築 | Trackback | Comments(2)

博物館明治村 聖ザビエル天主堂

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 この白亜の教会堂は、近世初頭日本に渡来しキリスト教の伝道に努めた聖フランシスコ・ザビエルを記念して、明治23年(1890)かつてザビエルがいたことのある京都の地に献堂されたカトリックの教会堂で、フランス人神父の監督の下に、本国から取寄せた設計原案に基づき、日本人の手で造られたものである。

 基本構造はレンガ造と木造との併用で、外周の壁をレンガ造で築き、丸い高窓の並ぶクリアストーリーの壁を木骨竹小舞の大壁構造にし、内部の柱や小屋組等を木造で組み上げており、内外の壁は漆喰を塗って仕上げている。正面入口の上には直径3.6mを超える大きな薔薇窓が付けられ、切妻の頂点には十字架が掲げられている。壁の出隅にはそれぞれ二方向のバットレスが付けられ、その上にピナクルが屹立する。

 当初は壁や窓のモールディング等はゴシック様式の異形レンガの積み込みにより作られていたが、移築に際し、建物強化のために躯体を鉄筋コンクリートに変更するのに合わせて、モールディングの部分もプレキャストコンクリートに変更するのに合わせて、モールディングの部分もプレキャストコンクリートに置き換えている。

身廊、側廊からなる三廊式で、前に玄関を張り出し、内陣の横には聖具室を配置している。大アーケード、トリフォリウム、丸窓のあるクリアストーリーの三層からなる典型的なゴシック様式で、身廊上部には交差リブヴォールトが架けられ、その頂点には木彫のボスが飾られている。

 身廊の両側に並ぶ柱は、軒まで達する太い角柱に幾本もの細い丸柱を付けた束ね柱になっているが、この柱やリブ等、天井板を除く全ての木造部分は欅で作られ、落着いた光沢を放っている。外光を通して美しい陰影を見せるステンドグラスは、色ガラスに模様を描いたもので、外に透明ガラスを重ねて保護されている。


博物館明治村 聖ザビエル天主堂
1890(明治23)年
登録有形文化財
設計 : フランス人神父
施工 : 不明
旧所在地 京都市中京区河原町三條
犬山市内山5-51博物館明治村内
撮影 : 2011.9.22 & 2012.3.10
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by gipsypapa | 2012-11-08 13:20 | 建築 | Trackback | Comments(2)

博物館明治村 半田東湯

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 この東湯は、知多半島の先、三河湾に面する港町亀崎にあったもので、小さな町にふさわしく間口3間のこじんまりとした銭湯である。明治の末頃建ったと推定され、約半世紀にわたって営業されており、湯水を多く使う商売柄、建物の傷み・改変も少なくなかった。しかし、表構え、番台などに明治の古風な銭湯の俤が遺されている。

 木造で前半分が脱衣室と和室が重なる二階建、奥の浴室部分が平家建になっており、屋根は前後とも切妻屋根である。外壁は和風の下見板張で、一階廻りにはガラス建具の窓・出入り口を開け、二階の窓には障子を立てている。

 古来、日本の銭湯には湯屋と風呂の二つの形があった。湯屋は湯舟に満たされた湯の中に身を沈める形で、風呂は湯気に身を包む蒸し風呂の形式であった。しかし、蒸し風呂は密室を必要とし、多数の客を入れることができないため、次第に湯屋が主流を占めるようになった。

 解体の時には、浴槽や床にはタイルが張られていたが、手法が新しいと判断されたため、明治末期の姿に推定復原した。男女の湯舟は隔てもなく、一つながりである。

 明治以前の湯殿には、「ざくろ口」という特有の入口があった。これは、湯舟から上る湯気の流出を少なくするため、湯殿の板囲いの出入口を低く押えたものである。しかし、湯殿の中が大変暗く、湯気がたちこめてあまり衛生的ではなかったため、明治12年(1879)禁止された。このように、維新後、いろいろな改良が加えられ、天井には湯気抜きが設けられるようになった。


博物館明治村 半田東湯
1910(明治末)年ころ
登録有形文化財
設計・施工 : 不明
旧所在地 愛知県半田市亀崎町
犬山市内山4-50博物館明治村内
撮影 : 2011.9.22 & 2012.3.10
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by gipsypapa | 2012-11-07 12:58 | 建築 | Trackback | Comments(2)

博物館明治村 呉服座

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 江戸時代以来の伝統建築の名残を留めるこの芝居小屋は、明治初年大阪府池田市の戎神社の近くに建てられ、戎座と呼ばれていたが、明治25年(1892)に同じ池田市の西本町猪名川の川岸に移され、名称も呉服座と改められた。ここでは地方巡業の歌舞伎をはじめ、壮士芝居、新派、落語、浪曲、講談、漫才等様々なものが演じられたが、特に興味を引くのは、尾崎行雄や幸徳秋水らが立憲政治や社会主義の演説会に使っていることで、当時の芝居小屋が大衆の遊び場、社交場であると同時に、マスコミの重要な役割も果たしていたことがうかがえる。

 構造は木造二階建杉皮葺で、舞台、客席部分には大きな切妻屋根を架け、その前に軒の高い下屋を降ろして、小屋の入口にしている。正面の高い切妻には太鼓櫓を突き出し、入口下屋の軒下には絵看板を掲げている。正面の壁は黒漆喰塗で、腰には和風の下見板が建て込まれている。出入口の扉は、裏面は和風の舞良戸であるが、表面には洋風の枠飾り等を施しており、目新しさを感じさせる。

 奈落は舞台の袖から降りて、廻り舞台の下を通り抜け、花道づたいに入口近くの楽屋の下まで達している。廻り舞台は、円周に沿って取り付けられた車と中心軸とで支えられている。

客席は、平場(平土間)と呼ばれ、桝席に区切られている中央の低い部分と、棧敷と呼ばれる廻りの部分からなる。 このような芝居小屋では、楽屋は舞台の裏手等に設けられるのが普通であるが、この呉服座では入口土間の上にあり、役者は奈落を通って舞台袖に行くようになっている。


博物館明治村 呉服座(くれはざ)
1892(明治25)年2
重要文化財
設計・施工 : 不明
旧所在地 : 大阪府池田市西本町
犬山市内山4-49博物館明治村内
撮影 : 2011.9.22 & 2012.3.10
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by gipsypapa | 2012-11-06 13:10 | 建築 | Trackback | Comments(2)

博物館明治村 小泉八雲避暑の家

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 「怪談」で有名な小泉八雲はもとの名をラフカディオ・ハーンといった。1850年母の国ギリシャに生まれ、父の国アイルランドで教育を受け、のちアメリカに渡って新聞記者などをする一方、翻訳、評論、創作等の面で文名を高めた。明治23年(1890)来日し、英語教師として松江中学に赴任し、地元の小泉節子と結婚、同29年日本に帰化して小泉八雲と名のった。同年帝国大学に招聘されて東京に移り、帝大や早稲田大学で英文学を講じた。東京へ移った翌年から、夏を焼津で過ごすようになり、その時身を寄せていたのが、この魚屋、山口乙吉の家である。八雲には「乙吉の達磨」「焼津にて」など焼津を題材とした小説がある。

 明治初年に建てられたこの家は、間口5.5m、奥行13.2mの町屋で、木造二階建桟瓦葺、両側面には和風のたて板を全面に張っている。本屋は軒の低い二階建、前面に一間程の庇を出して店構えとし、内部片側に通り土間を通す形式は、当時の町屋の典型的な形である。しかし、店前に余裕をもたせるため、左側一間分はそのままにして店と通り土間の前を奥へ下げている。二階の窓は戸袋を片側に寄せ、低い軒下を開け放って障子をいれている。

 隣の本郷喜之床と比較する時、軒の高さや庇の出などにその時代の特徴を知ることができる。

 内部一階右側は通り土間で、左に店、座敷が並ぶ。通り土間のほぼ中央、壁寄りには、屋根裏まで抜ける換気用の吹き抜きがある。二階では壁に囲まれて煙突状になっている。

 一階の店の隅から二階への階段がある。二階は厨子二階とも呼ばれた屋根裏部屋が発展した形で、広い座敷二部屋と納戸になっている。天井が一部傾斜しており、屋根裏部屋の名残をとどめている。


博物館明治村 小泉八雲避暑の家
1868(明治初)年
登録有形文化財
設計・施工 : 不明
旧所在地 : 静岡県焼津市城之腰
犬山市内山4-48博物館明治村内
撮影 : 2011.9.22 & 2012.3.10
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by gipsypapa | 2012-11-05 13:04 | 建築 | Trackback | Comments(2)

博物館明治村 本郷喜之床

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 この家は東京本郷弓町2丁目17番地にあった新井家経営の理髪店喜之床で、二階二間は石川啄木が函館の友宮崎郁雨に預けていた母かつ、妻節子、長女京子を迎えて明治42年6月16日から東京ではじめて家族生活をした新居である。

 啄木はそこで文学生活をしながら京橋滝山町の東京朝日新聞社校正部に勤めていた。明治43年9月にはそこに本籍を移し、10月には長男真一が生まれたが間もなく夭折した。そして12月に出版したのが啄木の名を不朽にした処女歌集「一握の砂」である。それはまた明治の暗黒事件として啄木の思想にも影響した大逆事件が起きた年でもある。その頃から母も妻も啄木も結核性の病気になり、二階の上り下りも苦しくなって明治44年8月7日小石川久堅町の小さな平家建の家に移った。明治45年3月7日にはそこで母かつが死に、翌4月13日には啄木もまた母の後を追うように27歳の薄倖の生涯を閉じたのである。

 この建物は明治末年を遡り得ないと思われる。江戸の伝統を伝える二階建の町家の形式を踏襲してはいるが、散髪屋としてハイカラな店構えに変化してきている。

 流行に左右され、清潔であることが売り物となる理髪店の常として、この店の内部も著しい改造が加えられていた。建物の柱等に残る痕跡調査を基に、できる限り創建当時の姿に復し、店内の飾り付けは、新潟にあった同時代の店「入村理髪店」から贈られた鏡や椅子等を置いて整えた。


博物館明治村 本郷喜之床(ほんごうきのとこ)
1910(明治末年)ころ
登録有形文化財
設計・施工 : 不明
旧所在地 : 東京都文京区本郷
犬山市内山4-47博物館明治村内
撮影 : 2011.9.22 & 2012.3.10
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by gipsypapa | 2012-11-04 09:51 | 建築 | Trackback | Comments(2)