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慶応義塾大学 三田演説館

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 1泊して翌日は慶応義塾大学の三田キャンパスを見て品川から新幹線で帰ることにしました。ここには重要文化財が2棟あります。

 慶應義塾の創立者である福澤諭吉が、明治初期に自らの資金で建設した日本最初の演説会堂。アメリカから取り寄せられた図面をもとに造られたとかで、玄関や窓は洋風でありながら、外観は木造瓦葺になまこ壁といった日本独特の手法が用いられています。建設当初は旧図書館と塾監局の間にあったが、1924年に現在の三田キャンパス南西の稲荷山に移築されたそうです。旧図書館と並んで三田キャンパスのランドマークです。国の重要文化財の木造2階建て。

慶応義塾大学 三田演説館
1875(明治8)年
重要文化財
設計・施工 : 不明
港区三田2-15-45
撮影 : 2012.9.30
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by gipsypapa | 2013-07-16 13:02 | 建築 | Trackback | Comments(0)

四国学院大学2号館

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 善通寺は今でも市街地近くには陸上自衛隊の旅団司令部や駐屯地が配置されていますが、明治時代から帝国陸軍の師団が置かれていた軍都だったので、当時の建物が残っています。

この建物は旧陸軍第11師団の兵舎だったもので、今は四国学院大学の校舎として使われています。南側中央に1本石によるロマネスク風の大オーダーと大振りなペディメントの玄関ポーチが特徴です。国の登録有形文化財の木造2階建て。

四国学院大学2号館
旧陸軍第11師団兵舎棟
1897(明治30)年
登録有形文化財
設計・施工 : 不明
善通寺市文京町3-2-1
撮影 : 2012.2.27
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by gipsypapa | 2013-04-26 13:12 | 建築 | Trackback | Comments(2)

若竹の園保育園舎 幼児保育棟

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 事務室棟の北側にある園舎。これも天然スレート葺きの屋根。南北棟の北側で東に折れ曲がって、急傾斜の切妻を正面に見せています。屋根は急傾斜ですが、事務室棟と同様に軒先は折れ曲がって緩い勾配になっています。装飾は少ないが、この建物も事務室棟と同じコンセプトの、お洒落で優美な園舎です。

 なお文化遺産オンラインでは事務室棟の南に位置するとあり、名称も幼児保育南棟となっていますが、現実には北側にありました。何かの誤解と思われます。国の登録有形文化財の木造平屋建て。

若竹の園保育園舎 幼児保育棟
1925(大正14)年
登録有形文化財
設計 : 西村伊作
施工 : 藤木工務店
倉敷市中央1-6-12
撮影 : 2011.12.3
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by gipsypapa | 2013-01-24 13:03 | 建築 | Trackback | Comments(0)

若竹の園保育園舎 事務室棟

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 倉敷で見たかった建物の一つです。設計は文化学院を創立した教育者で、大正、昭和を代表する建築家、画家、陶芸家、詩人、生活文化研究家でもある西村伊作(にしむら いさく 1884 - 1963)。

 独特の形状をした寄せ棟造りの保育室から、南側に切妻造の事務室を張り出し、保育室には園の門に向かってとんがり屋根の切妻造の玄関があります。屋根は天然スレート葺で、軒先近くを折り曲げて緩い勾配にしているのが特徴。

 玄関ポーチの入口は石積のアーチになっていて、側面にステンドグラスのアーチ窓。西村伊作の独創性とセンスの良さを感じさせる、お洒落で美しい建物です。国の登録有形文化財の木造平屋建て。

若竹の園保育園舎事務室棟
1925(大正14)年
登録有形文化財
設計 : 西村伊作
施工 : 藤木工務店
倉敷市中央1-6-12
撮影 : 2011.12.3
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by gipsypapa | 2013-01-23 13:24 | 建築 | Trackback | Comments(2)

倉敷中央看護専門学校

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 最後は敷地の東端に建つ3階建ての建物。旧外来棟、旧事務所棟と同じコンビの設計で建てられた看護婦養成所で、現在も倉敷中央看護専門学校として使われています。これまでの旧外来棟と事務所棟とはうって変わった、様式主義とモダニズムを両立させたような、外観です。

 1階部分の腰壁回りは煉瓦タイルを貼り。アーチ型の玄関ポーチに多少古典的な雰囲気がありますが、全体的に装飾は少なく、モルタル仕上げのドイツ壁に縦長窓が均等な間隔で並ぶ、あっさりした意匠になっています。なお3階部分は後に増築されたそうで、壁に継ぎ目が見えます。

 またネット情報では1923(大正12)年築というのもありました。少なくとも専門学校の設立は1923(大正12)年です。ただ他の2棟と違い鉄筋コンクリートで、外観のデザインが違いすぎるため、少し後の築の感じを受けます。ということで、もう一つ情報のあった1926(大正15)年としました。鉄筋コンクリート造り、3階建て。

倉敷中央看護専門学校
旧倉紡中央病院附属看護婦養成所
1926(大正15)年
設計 : 薬師寺主計(建築顧問)+隅田京太郎+武内潔真
施工 : 藤木工務店
倉敷市美和1-1-1
撮影 : 2011.12.4
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 玄関ポーチに表示されている「K.C.H College of Nursing」のK.C.H. はKurashiki Central Hospitalの意味です。
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by gipsypapa | 2013-01-22 13:32 | 建築 | Trackback | Comments(2)

博物館明治村 第四高等学校武術道場「無声堂」

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 古来、武士のたしなみとして剣術、柔術、水術等様々な武道が伝えられてきたが、明治初年の新しい学校体育では体操が中心で、武道はとりあげられなかった。明治15年(1882)嘉納治五郎が柔道を創始して古武道の改革をはかるが、これが下地となって、日清戦争後、15歳以上の強壮者に対し武道を正課外で習わせることが認められ、主として大学、高等学校の運動部の活動として普及をみるようになった。明治後期になると、国内全般に尚武的気風が高まり、それまで欧米式体育に対する反省もあって、学校体育に武道が加えられるようになった。

 この「無声堂」は大正6年(1917)金沢の第四高等学校に建てられたもので、柔道、剣道、弓道三つの道場を兼ね備えた大きな洋風建築物である。木造下見板張桟瓦葺の余り派手さのない建物であるが、道場の床には工夫がみられ、柔道場では床の弾力を増すため床下にスプリングを入れ、剣道場では音の反響を良くするため床下に共鳴用の溝を掘っている。長い年月にわたり、幾多の若人がこの「無声堂」で修練を積んできた。

 茅葺の厚く深い軒の下には丸い的が置かれている。弓道場の正面は、雨戸を入れる戸袋まで左右に開くことができるため、さえぎるものは柱一本ない。小屋組の構造を合理的な洋小屋組にすれば、このように途中の柱を抜いて長大な間を架構することも比較的容易である。


博物館明治村 第四高等学校武術道場「無声堂」
1917(大正6)年
登録有形文化財
設計・施工 : 不明
旧所在地 : 石川県金沢市仙石町
犬山市内山4-34博物館明治村内
撮影 : 2011.9.22
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by gipsypapa | 2012-10-18 12:53 | 建築 | Trackback | Comments(2)

博物館明治村 宗教大学車寄

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 この建物は、現在明治村3丁目の岬の広場に「あずまや」の如く建てられているが、本来は明治41年(1908)東京郊外の巣鴨に新築された私立宗教大学本館の車寄であったものである。

 木造二階建の本館校舎は、講堂を中心に左右に教室を配した一文字型の大きな建物で、その正面にこの車寄があった。この高さ6.9mの車寄からも推し測られるように、本館はバロック風の大屋根を頂く壮大な明治末期の特色ある洋風建築で、車寄と同様、腰石には花崗岩が積まれていた。

 大正15年(1926)大正大学と改称された後も、長く校舎として使われ、椎尾弁匡をはじめとする宗教学の諸碩学が子弟の教育に当たった由緒ある建物でもあった。

 昭和43年(1968)2月、折から帝国ホテルの保存問題が世間の注目を集めていたが、この宗教大学本館が消え去ることを惜しみ、明治村では本館の俤を残すこの車寄部分を解体・保存した。


博物館明治村 宗教大学車寄
1908(明治41)年
登録有形文化財
設計・施工 : 不明
旧所在地 : 東京都豊島区西巣鴨
犬山市内山3-33博物館明治村内
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by gipsypapa | 2012-10-16 13:35 | 建築 | Trackback | Comments(2)

博物館明治村 第四高等学校物理化学教室

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 明治19年(1886)に「中学校令」が公布され、東京大学予備門が第一高等中学校に、大阪の大学分校が第三高等中学校に改組された。引き続き、翌年には仙台に第二、金沢に第四、熊本に第五高等中学校が設置され、明治27年(1894)の「高等学校令」により、いずれも高等学校に改称・改組された。

 この物理化学教室は高等中学校時代の明治23年(1890)に創建され、以後、第四高等学校、金沢大学へと引き継がれてきた建物である。

 近代化を推し進めようとする明治政府にとって自然科学教育は重要な課題で、明治5年(1872)公布された学制の「小学規則」の中にも窮理学(物理)、科学、博物、生理、の四科目があげられており、初等教育の段階から重きを置かれていた。中等・高等教育においても、実験まで含めた自然科学教育が実施され、ここに見るような物理化学教室が建設された。
 もとはH型の大規模な建物であったが、明治村では中央部分だけを移築・保存している。木造桟瓦葺平家建であるが、階段教室の部分だけ一廻り大きくなっている。外壁は南京下見(なんきんしたみ)と呼ばれる洋風の張り方で、竪長の窓には下に上ゲ下ゲ窓、欄間(らんま)に回転窓が入れられている。又、軒裏には小さな換気口が数多くあけられ、実験室のドラフト・チャンバーとともに室内換気に効果をあげている。

 棟札によれば、この建物の工事監督は文部省技師山口半六、設計者は同じく文部省技師の久留正道である。この二人はともに明治期の学校建築の功労者であるが、特に久留正道、西洋建築の理論や技術の研究を行い、「学校建築設計大要」等を著している。この階段教室も、そういった理論の裏付けのもとに、段の勾配、天井の高さ、窓の位置・大きさ等が設計されている。


第四高等学校物理化学教室
1800(明治23)年
登録有形文化財
設計 : 久留正道
施工 : 山口半六(工事監督)
旧所在地 : 石川県金沢市仙石町
犬山市内山2-15博物館明治村内
撮影 : 2011.9.22
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 谷口吉郎・土川元夫レリーフ (製作:菊池一雄)
 明治村は、四高時代同級生であった東京工業大学教授で建築家の谷口吉郎と名古屋鉄道株式会社会長の土川元夫の発想と決意によって誕生した。 
 土川元夫 1903-1974
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 谷口吉郎 1904―1979
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by gipsypapa | 2012-09-23 10:42 | 建築 | Trackback | Comments(2)

博物館明治村 千早赤阪小学校講堂

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 一階が雨天体操場、二階が講堂となっているこの建物は、もとは大阪市北区大工町の堀川尋常小学校にあったが、昭和4年(1929)同校の校舎が新築されるに際し、南河内郡千早赤阪村の小学校に移築されたものである。

 木造二階建桟瓦葺寄棟造で、建物の四周に幅1間(約1.8m)の吹放ち(ふきはなち)の廻廊をめぐらせている。二階の外壁は洋風下見坂で、出隅には柱型を付け、軒には蛇腹をまわしている。壁面に整然と並べたれた堅長の窓には欄間と上ゲ下ゲガラス戸が入れられているが、その廻りには額縁をまわすとともに、上にはペディメントを飾り、窓台下にはブラケットを付けた古典的な姿になっている。一方、下屋に隠れた一階の壁は漆喰塗真壁で柱を表面に見せ、腰には竪羽目板を張っている。四方に開けられた出入口は全て引き違いの大きなガラス戸になっていて、欄間にも引き違いガラス戸を入れている。

 明治中頃から学校教育の中で体操が重視されはじめ、明治後期には体育教育が盛んに行われるようになる。体操の内容も亜鈴式からスウェーデン式へと変わり、広い体操場が求められるようになった。

 なお、明治村への移築に際し、建物の高さが木造建築の法定限度を超えるため、建物四隅の壁体の中に鉄骨を埋め込んで、補強した。

 一階の廻廊には、二間(3.6m)ごとに細い角柱が立てられ、柱間に浅いアーチ形の幕板を入れ、その中央にペンダント状の吊束を付けている。因みに、アーチが連続した廻廊をアーケードという。


博物館明治村 千早赤阪小学校講堂
1897(明治30)年ころ
登録有形文化財
設計・施工 : 不明
旧所在地 : 大阪府南河内郡千早赤阪府
犬山市内山2-14博物館明治村内
撮影 : 2011.9.22
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by gipsypapa | 2012-09-21 12:56 | 建築 | Trackback | Comments(2)

博物館明治村 東京盲学校車寄

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 福沢諭吉の「西洋事情」(慶応2年〔1866〕刊)には欧米における盲人及び聾唖者教育の実情も記されており、その中に点字による教育実践の様子が書かれている。

 日本で最初に盲人教育が行われたのは、明治6年(1873)頃であるが、まだ組織化されたものではなかった。

 明治13年、築地に私立の訓盲院が作られ、本格的な障害者教育が開始された。その後国立となり、一時は盲唖学校として障害者の一元的教育を目指した時期もあったが、明治41年(1908)盲唖分離を目的として小石川雑司ヶ谷町に東京盲学校が建設されることになり、同43年6月本館が完成した。

 本館は木造二階建、間口62mにも及ぶ大建築で、板張の壁面に柱、桁、胴差等の垂直材・水平材と筋違い等の斜材を浮き出して装飾とするハーフティンバーと呼ばれる様式が使われたが、これは明治末期の学校建築の典型的なスタイルであった。明治村は、この本館が昭和42年(1967)取り壊される際、デザインの凝縮されたその車寄だけを移築保存し、日本庭園の一角に据えて「あずまや」とした。


博物館明治村 東京盲学校車寄
1910(明治43)年
登録有形文化財
設計・施工 : 不明
旧所在地 : 東京都文京区千駄木町
犬山市内山1-10博物館明治村内
撮影 : 2011.9.22
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 この一帯には明治村日本庭園がありました。
by gipsypapa | 2012-09-17 20:54 | 建築 | Trackback | Comments(4)